大津屋の商業圏

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大津屋菅井家は、中津川宿新町の商家である。味噌の醸造・販売業を営んでいたとのことであるが米、大豆などの穀物や塩の売買や金融業等と巾広く営んでいた。創業は不詳であるが、寛文年間に近江国大津から、中津川村に来て、新町に住み商業を営んだ。
 同家に伝わる文書のうち、貸借関係のものを宿村別に整理して、略地図に記入したものがⅥ-71表である。同家の取引のすべてを表わしているものではなく、売上代金や貸金の未回収の証文からではあるが、かなりの程度まで同家の取引地域の広いことを知ることができ、それを通して中津川の商業圏をある程度つかむことができる。
 貸借関係で多いのは、第一に地元中津川村であり、中津川宿の町分が件数・金融ともに多く、八二件 二五一九両に及んでいる。ついで在郷の小村である川上、上金、恵下、中村が多くなっている。村方(中津川村の財政)や山村家中津川代官所とその役人への貸金も多い。第二に、中津川村周辺の駒場村・手金野村・千旦林村・茄子川村・飯沼村・阿木村・落合宿である。第三に、馬籠宿・妻籠宿をはじめ山口村、田立村、蘭村など木曽福島まで、木曽方面の宿村への貸金が多い。また大井宿から細久手宿、下街道の土岐口方面への取引もあったようであるが木曽地方ほどではない。第四に、苗木・福岡村・蛭川村など苗木領との取引であるが、遠山家からは、嘉永以来三度、扶持を拝領しているほどなのに、蛭川村を除いて村数・金額ともに少ないのはどうしてであろうか。第五に注目したいことは、岩村・串原村・三河国設楽郡稲橋村[愛知県稲武町]への貸金が多いことである。これらの村々は遠江国秋葉山への道沿いにあり、菅井家が秋葉山を熱心に信仰していたこと、稲橋村の豪農の古橋家は中津川出身で、中津川と姻籍関係もあり往来が多ったことなどが影響していたものであろうか。最後に、信濃国飯田との取引では、安永七年(一七七八)に一件だけであるが、酢仕入金一〇両の貸金が残っている。ここにも飯田との商取引の一端をうかがうことができる。

Ⅵ-71 大津屋の商業圏(図)