伊那の清内路村で作られた櫛木地(くしきぢ)を買入れて、中津川村上金でお六櫛を製作して京・大坂方面へ売り出していたことは前述したが、中津川宿には木曽で生産された板子(瓦木)・榑木・柾板などの白木や曲物・桧物道具・桧笠などの白木製品を売買する商人がいた。次の資料は、前年末までに仕入れて残った木品を尾張徳川家の白木改番所や川並番所へ届けた報告文書である。
覚
一 檜笠 弐百蓋 御印紙壱枚 近江屋 市兵衛 印
一 同 弐百蓋 御印紙壱枚 塩屋 新四郎 印
一 同 四百蓋 御印紙弐枚 松屋 与左衛門 印
一 同 百蓋 御印紙壱枚 十八屋 十 蔵 印
一 同 三百蓋 御印紙弐枚 塩屋 幸 八 印
一 ふるいかわ 四拾壱掉 御印紙四枚 中丸屋 源兵衛印
一 檜笠 三万四千八百蓋 御印紙百九拾五枚 十八屋 杢右衛門 印
一 挽下駄 五拾七箇 御印紙拾五枚 同 人
一 (落合山)小板 弐百弐拾弐束 御指札弐百弐拾弐枚 同 人
右ハ去ル辰年買払残如此ニ御座候以上
宝暦十一年(一七六一)巳正月七日 中津川
[以下商人の連署あり、便宜上三段書き(下欄)とする。]
御役所様
加納屋 万兵衛 印 塩屋 市郎右衛門印 中村屋 利左衛門 印
坂本屋 市左衛門印 えびすや喜 十 印 塩屋 金 蔵 印
えび屋 彦 助 印 塩屋 与 十 印 いづミや五平次 印
うちわや藤九郎 印 さかいや又 蔵 印 大坂屋 新九郎 印
三川屋 理兵衛 印 十八屋 五兵衛 印 明知屋 久右衛門 印
加納屋 新兵衛 印 若松屋 久次郎 印 付知屋 嘉平次 印
覚
一 檜剝板 百四箇 御印紙七枚 十八屋 杢右衛門
但シ地頭方仕出シ 名古屋川方屋善右衛門行
一 槻板子 百拾壱挺 御印紙七枚 同 人
但シ地頭方仕出シ 名古屋川方屋善右衛門行
右ハ去ル午年出拂残如此御座候以上
文政六(一八二三)未年 正月 中津川村
茄子川 御番所様 (以上二点立教大学蔵)
中津川宿の白木や白木製品を取扱う商人として、近江屋市兵衛・塩屋新四郎・松屋与左衛門・十八屋十蔵・塩屋幸八・中丸屋源兵衛・十八屋杢右衛門・塩屋金蔵等がいたこと。これらの商人が白木としては、小板・榑木・屋根板・桧剝板・槻板子などを、白木製品として桧笠・篩の側(ふるいのかわ)(曲物)などの桧物道具、挽下駄、手桶・手水あらい・入湯桶・足洗いたらい・荷い桶・水ため桶などの桶類を商っていたことがわかる。
桧笠は木曽の蘭村で製作されていたことは明らかであるが、下駄については、上松材木奉行の上席手代などを勤めた寺町兵右衛門が宝暦九年(一七五九)に著した「木曽山雑記」によると、木曽の妻籠や平沢などで製作されたものと考えられる。このようにして木曽で生産された白木や白木製品を、中津川の商人が販売していた。これらの品物を取扱う商人の中でも、その種類と数量において抜き出ていたのが、十八屋杢右衛門であった。特に注目されるのは、彼の扱う桧笠の一年の買払い残りが三万四〇〇〇蓋もあるということである。
なお安政六年(一八五九)頃、本町で旅籠屋を営む坂本屋市左衛門が桧の五・六寸角や丸柱・板などを販売している文書があるが、規模等については不詳である。