十八屋杢右衛門と桧笠

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十八屋杢右衛門は中津川の新町(現在の郵便局と藤井金物店の辺)に住んでいた当地方の豪商で、羽間(後に間)杢右衛門といい、屋号が十八屋であった。
 次の史料は、蘭村で生産される桧笠を商っていたことを裏付けるものである。
 
       檜笠一札之事
一 当村ニて出来仕候桧笠之儀 宝永年中之比(頃)より貴殿え一円ニ御引受御支配被下 万端村方都合宜敷来候 (略)
 大古ゟ年々拾万蓋ツヽ御支配被下候所近年世風法重 年々売方相減 拾万蓋取扱出来不仕候趣ニ被思召 当時五万蓋ツヽ御支配被下旨 御勘考之上御挨拶被下 誠ニ御熟意之上村方御取立被下 千万忝承知仕候 此以来之儀は 村方一統取〆リ仕一円ニ貴殿之御支配御頼申上候 木曽谷小売并東口出之外ハ堅他え売申間敷候儀 一統ニ相違無之候間 厚ク御引廻シ被下行末永く御支配被下候様奉願上候 (略)右一件御頼入一札為後日手形仍而如件
                    蘭村 五人組頭 治右衛門 印
   享和元年酉十二月               (以下六名省略)
                       村惣代  勘左衛門 印
    中津川宿
      十八屋杢右衛門殿            (以下十名省略)
  前書之通リ相違無御座候 仍而奥印如件   庄屋 原 治 助  印
                       組頭 尾崎逢右衛門 印
                          (以下二名省略)
                          (立教大学学蔵)
 
 この史料によって、蘭村で生産される桧笠を一手に引請けて販売する卸売問屋であったこと、また宝永年中(一七〇四 一七一〇)から年一〇万蓋ずつを卸売していたことがわかる。前項に掲げた買払残り報告の史料は、十八屋杢右衛門が引請けた年一〇万蓋の桧笠のうち、宝暦一一年(一七六一)には三万四八〇〇蓋が売れ残ったということであると考えられる。
 蘭村の桧笠の生産は、享保一三年(一七二八)に年間一〇万蓋に限定されたとのことである。それまでは生産量は決められていなかったが、年々生産が増加して、享保一二年(一七二七)には一六万五五〇〇蓋程になった。そこで翌年尾張徳川家によって年一〇万蓋と限定され、その運上銀は六八七匁五分と決められたという(木曽沿革史 木曽考続貂)。
 桧笠の売れ行きが悪かったり、価格が下落した年もあった。寛延年中[一七四八 一七五〇]には蘭村のものが直接西美濃へ売りに行ったが、ほとんど売れなかったことがあったり、同じく蘭村の者が、可児郡石原村の儀平というものに売ったりしたこともあった。寛政一二・三年[一八〇〇 一八〇一]には、同じ理由で蘭村の方で仲買人をつくり、直売を行った。しかしほとんど売れなくて価格も下落し、仲買も行きづまり、村中が難渋に陥ってしまった。この時には村の代表が数度にわたって、十八屋杢右衛門に謝罪して問屋を勤めてくれるように依頼するという顚末もあった。十八屋杢右衛門の方では年々売上げが減少しているので、年一〇万蓋を取扱うことはできない、五万蓋ずつなら、という条件を出し、蘭村の方では、木曽谷での小売と「東口出」(伊郡谷へ売ることであろうか)以外は決して他へ売らない、という一札を入れて、年五万蓋の卸売を依頼するということになった(立教大学蔵)。
 ところが、文政八年(一八二五)には、桧笠の価格が下落し、蘭村では「村方一統難渋」に陥った。活路を求め他方面と交渉した結果、名古屋枇把嶋の大坂屋佐兵衛が蘭村の桧笠全部を引請け、値段も一〇〇蓋につき銀六匁で買上げてくれるという話が進んだ。この事を宝永以来の取引き先である十八屋杢右衛門に話し、同じ値段で引請けてもらえるなら、名古屋の方を断りたいと相談すると、十八屋は銀四匁五分までなら買入れてもよいとの返答であった。村方一統はこれでは承知できず、名古屋へ送ることに決めた。桧笠は尾張徳川家の御免手形で製造販売しているので、役所に相談したところ、今一度、取扱人を依頼して話し合ったらという助言であった。取扱人に須原宿問屋木村平左衛門・馬籠宿年寄大脇兵右衛門・湯舟沢村庄屋嶋崎文左衛門を立て、双方話合いをしたところ、一〇〇蓋につき銀五匁二分という値段で合意ができ、引続き十八屋が桧笠の問屋をつとめることになった。このように十八屋は木曽における御免手形の商品である桧笠を専売する卸売問屋であった。なお店には「桧笠支配之者」という専門担当者がいた様子が「私店桧笠支配之者西方ゟ帰宅之上御挨拶可申入」という文面から推察される(立教大学蔵)。