蔦野屋と生糸

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新町の蔦野屋由兵衛・伝兵衛家(中部電力中津川営業所付近)の分家である蔦野屋平吉(本家の東隣現在の蔦勘)は、元治元年(一八六四)に穂並屋常助と仲間で生糸を仕入れている。その仕入れの様子を表にしたものがⅥ-72表である。合計で約八〇貫の生糸を一三三三両余で仕入れている。その仕入れ先は、木曽の野尻宿、須原宿、上松宿、長野村、恵那郡北部では、苗木領の福岡村、上地村、上野村、加茂郡の切井村、赤河村、尾張領の付知村、恵那郡南部では明知村となっている(高木家文書)。

Ⅵ-72 生糸の仕入(蔦野屋平吉と穂並屋常助の仲間糸勘定) 元治元年(1864)

 これらはおそらく仲買人を通して仕入れたもので、仕入金の支出先を見ると、前述した地名よりさらに広く、木曽方面では馬籠宿、山口村、福島宿、恵那郡北部では加子母村、苗木領の蛭川村、並松、苗木、加茂郡の白川村、神土村、恵那郡南部では岩村などである。これらの地名は、幕末における中津川の商人の商業圏を示していると考えられる。仕入れた生糸はどこへ販売されたか、「糸諸入用おほへ帳」(元治元年高木家文書)には、横浜無尽掛金等の記録がみられるので、開港後の横浜や京都方面であったと考えられる(第九章幕末の中津川参照)。
 この蔦野屋平吉店はどういう商店であったか、天保一五(一八四四)の「棚おろし帳」(高木家文書)を見ると、呉服物、縞、小紋、縮緬、紺 浅黄(葱)、木綿、古手、小間物、亀甲かんざし、びんのあぶら、たばこ、きせる、たばこ入、はばき 紙入黒糸、傘、かさたて、金物、かま、釘、表類、縁地(へりじ)等が見られるから、呉服、太物、古手、小間物、金物、畳表などを商っていたということになる。この棚おろし帳の締め(合計)のところに次の様に記されている。
 
  惣〆金千百八十弐両壱分弐朱
   内金四百八拾三両壱分弐朱  質 かし金〆
    金百五十両        本家に預ケ
    金五百四十九両      代物有金 〆
   此内
    名古屋 江州かり金 金八十両 有
    又  弐拾両   かり引
    又  拾両    外ニ引
  差引金 千七拾弐両壱分弐朱
   此内 七拾両壱分  利有
 天保十五年辰年〆改
   弘化二年巳正月十五ゟ十九日相改 (高木家文書)[傍点筆者]
 
 これらの史料によって、この商店は金融もやっていたこと、さらに商品を名古屋・近江の商人らから仕入れていたことなどを知ることができる。
 蔦野屋平吉家の本家である蔦野屋由兵衛・伝兵衛家も新町の豪商であったといわれる。その商業活動の内容について明らかでないが、高木家(高木伸一家)に残る貸借文書によると、中津川代官へ、安政二年に五〇〇両を、翌三年には八〇両融通し、利米・利足を取り、苗木遠山家に対しても元治二年(一八六五)に三〇〇両、慶応二年には三度にわたって計一〇〇〇両を、同三年にはさらに三度にわたり一〇六〇両を貸付けている。これら代官所や苗木遠山家への貸付けにとどまらず、代官所の役人や福島の家臣達に対しても多額な金を貸付けていた。その他天保年間には、太田代官所へ調達金を、年一〇両~三〇両ほど出し、中津川村に対しても、天保五年(一八三四)から安政二年(一八五五)にかけて三度にわたり四九両と当座の立替などをしている。幕末期におけるこの地方の金融の上で重要な役割を果たしていたことがうかがわれる。