寛政年間(一七八九~一八〇〇) | 『一此宿三ヶ月((壱)カ)六日の市あり 「陽古義に古来より六斎市とあり」』(濃州徇行記) |
享和元年(一八〇一) | 「一当宿 市日御座候 但定日毎月三八」(御分間明細書上帳・市岡家文書) |
天保~安政年間(一八三〇~一八五九) | 「此宿 毎月三・八之日 市立有之」(中山道宿村大槪帳) |
「中川旧記」にも「三八六斎ニ月毎市立来候」と記されている。これらの記録を総合すると、毎月三と八のつく日、即ち、三日・八日・一三日・一八日・二三日・二八日の六回、定期的に市が開設される六斎市であったと解することができる。いつごろから六斎市が開設されるようになったのか明らかでないが、元禄五年(一六九二)の「奉願口上之覚」に「市運上 上金年々五六両程つゝ御座候 是ヲ先年ハ前年伝馬役人共立会配当仕リ候ヘ共…」(市岡家文書)とあり、元禄五年以前から開設されていたということがわかる。
さらに元禄一一年(一六九八)には
中津川町 市運上金 伝馬役四拾弐人 元禄拾年丑之暮ゟ順々に市運上金 壱ヶ年に六両づつに相定 右之内三両弐分年々弐疋雇馬之金に引…(中略)右市奉行方ゟ請人急度相立 御役人中へ別紙證文指上可申候 以上
元禄拾壱年寅十二月日
一 金子六両 卯之年分運上金 (元禄一二年)
一 金子六両 辰年運上金 (元禄一三年)
一 金拾両弐分 巳年運上金 (元禄一四年) (古来入用留帳・市岡家文書)
元禄一〇年から一三年までは、市運上金が六両ずつ、一四年は一〇両二分にあがっている。宝永三年(一七〇六)には、「中津川町市運上之定」を決めているから、元禄・宝永時代には、市が毎年開設されていたようである。嘉永七年(一八五四)一二月の「寅年伝馬役請判帳」によると「一丸立 五役 市馬」と決められ、伝馬丸役にして五役を市馬で勤めさせることにしている(森家文書)。このようにみてくると、中津川の六斎市は、少なくとも元禄頃から幕末まで続いていたと考えられる。
市運上金は本来、中津川村の領主である尾張徳川家に納めるべきものであるのに、それを中津川宿で貯めておいて、伝馬のための馬を飼育したり、雇馬に使用し、残金は伝馬役負担者で配分していることである。即ち中津川宿では、六斎市が宿駅や伝馬制の保護とか、助成策になっていたことが推察される。
中津川宿の六斎市の様子を見るために、宝永三年(一七〇六)の「中津川町市運上之定」を掲載すると次のようである。
中津川町市運上之定
一 御蔵米 本手形ハ運上不取候 又買ハ壱駄ニ付弐分ツツ
一 壱重かわ米 市米ハ勿論 他領へ借米之利共ニ壱駄ニ弐分ツツ
一 塩・大豆・炭・小豆・柿・肴 駄売小売共ニ壱駄弐分ツツ
一 くりわた 駄売壱駄ニ付壱匁
一 古手 多少ニ不依他所ゟ定見セ(店カ)仕候もの冬中ニ七匁ツツ
一 古手小間物 他所ゟ市売仕候もの三分ツツ
一 木綿 釘 麻 打物 駄売小売共ニ壱駄ニ二分ツツ
一 田葉粉 駄売壱田(駄カ)ニ付弐把ツツ
右之外惣て商売仕候者 他所者ニ不依 入込候類壱駄ニ付弐分ッツ 但シ他所者定ミセ(店)仕候者ハ何ニても壱匁ツツ取可申候被市奉行廻り之節 右之通無相違可被相渡候以上 如此町江申渡候 以上
宝永三年(一七〇六)戌十二月 (古来留帳・市岡家文書)
これによると、(1)六斎市で売買された商品は、大豆、小豆のような穀類、柿、肴(魚カ)、塩等の食品や調味料、繰綿、木綿(綿糸、綿織物)、麻、古手(古着、古物)のような繊維や繊維製品、古手小間物、炭、釘や打物等の金物、たばこなどがあったこと。「右之外……入込候類」とあることから、他の商品のあったことが推測される。(2)これらの商品には市運上という税が課せられたこと。但し領主の尾張徳川家、地頭山村家の蔵米で本手形のあるものは運上が課せられなかった。(3)市の管理には、市奉行という役人(後には市役支配、市役人)がいて、市運上を徴収して回った等のことがわかる。
また三八の六斎市には、苗木領の村々から、筵(むしろ)、紙、楮(こうぞ)、木綿等の商品が入ってきたことも「濃州徇行記」に書かれている。
中津川の六斎市は、市運上を通して中津川宿の伝馬役人、ひいては宿への助成に役立ったことを含めて、この地域は勿論のこと木曽地方、恵那地方の唯一の市として、この地域の商業の発達の上で果した役割は大きいと考えられる。