旅客や荷物、文書を運ぶのは、馬の背や人間の背であったから、各宿駅には一定数の人足や馬を常備して、宿から宿へと継ぎ送った。このことを人馬の継立といった。人馬の継立も、公用の荷客・文書が優先されたことは当然である。この人馬の継立こそが、宿駅の負担の最たるものであった。その負担には、伝馬役(馬役)と歩行役(人足役)とがあった。伝馬役は馬の背で荷客を運ぶ義務を負うものであり、歩行役は人間の背で荷客を運ぶ義務を負うものである。この義務負担者が求めに応じて荷客を次の宿駅へ運ぶ制度が伝馬制度である。
近世における伝馬の制が設けられたのは、東海道では慶長六年(一六〇一)で、中山道の場合も、慶長七・八年に多くの宿駅に伝馬の制が設けられ、寛永頃からお定人馬五〇人・五〇匹となったようである。しかしこれだけの人馬を各宿に常備することは大変困難なことだったようで、木曾一一宿では元禄一四年(一七〇一)以降、二五人・二五匹が認められており、中津川宿をはじめ東美濃九か宿でも、実際には原則どおりではなかったようである。この点を含めて、中津川宿における伝馬役、歩行役などの負担の方法や状況・人馬の継立の様子について述べる。