伝馬役・歩行役の負担は、中山道の追分宿等では、宿駅の住民の屋敷の間口に応じて課せられ、馬役は間口八間で伝馬一匹、歩行役はその半分の間口四間で歩行(人足)一人を負担するというようであった。即ち間口が負担分配の基準であったとのことである(児玉幸多・近世駅伝制度の研究)。中津川宿では、現在までにこうした記録は見当らない。ところが元禄六年(一六九三)三月、幕府の代官細井丸左衛門らの手代松本弥五郎ら三人が、東海道・中山道の宿々助郷吟味のため巡回した際に、中津川宿で一泊し、問屋・庄屋・年寄たちを旅宿に呼び出して行った諸質問と宿役人の答の要旨が記録されている。その中に次の一項がある。
当所伝馬役之儀ハ地下中ゟ相勤申かと御尋被成候 此方ゟ申上候ハ 伝馬役之者ハ先年ゟ高之高下ヲ以 馬役人・歩行役人と相極メ 年々相勤させ申候 地下中ゟ勤不申候由申上候 (市岡家文書古来留帳)
先年とはいつのことか不明であるが、「高之高下」というのは、持高の高い低いという意味に解され、宿民の持高の多少を基準にして、馬役、歩行役の負担者を決めたと理解すべきであろう。それでは持高何石で伝馬役と歩行役に分けられたか。
元禄七年(一六九四)尾張徳川家から、中津川宿へ初めて伝馬御救金三〇両が支給された。この配分方法が覚書きとして記録されている。その中に持高の基準が想像できる一文がある。これによると中津川村の枝郷川上(かおれ)村は、人馬の継立や休泊に関する夫役(往来役または往還役ともいう)をつとめていないので、配分の対象にはならない。しかし中津川村全体で、領主への嘆願・報告のために名古屋へ行った旅費やその他の経費は、川上村へも高割で徴収していた関係上、川上村へも救金を配分することにした。しかし実際には往来役をつとめていないので、配分すべき人数(伝馬役を除いて小役人の数)がわからない。そこで考え出された川上村の仮の小役人数の算出方法は、中津川宿の町小役人の持高に準じて算出されたようである。これによると、中津川宿の町小役人(歩行役人・夫士役など)の中が、大高・中高・小高の三段階に分けられていたこと、段階区分の基準が持高であったこと。そして「三石めど」で川上村の村高を除して、川上村の仮の小役人数を六人と設定しているから、三石が中津川宿の町小役人の持高の平均であったことがわかる(市岡家文書古来留帳)。さらに元禄五年(一六九二)二月 中津川宿の問屋役二名が、中津川代官に提出した「歩行役立がたき者之覚」には、八名の歩行役負担者があげられている。これらはともに「一高四石三斗四升九合 安右衛門」とあるように間口でなく持高が記入されている。八名とも四~五石余である。しかも「何れも少高役人共にて」と述べている。持高の多少が歩行役人負担能力等をおしはかる目安となっていたようである。
伝馬役の持高は、どのくらいであったか。伝馬役となると馬を購入し、飼育しなければならない上に、伝馬には馬方がつかなければならないから、歩行役人より高い負担能力を要する。従って歩行役人の持高より高かったはずであるから、少くとも五~六石以上であったと考えられる。しかし伝馬役の持高についての具体的な記述は見あたらない。それに元禄以後は、持高のみでは測ることができず、旅籠屋の規模(これは間口と関連)や商業経営の規模・状況等との関連が深くなっていったことも考えられる。
「中川旧記」によると、「旅籠屋ハ伝馬屋敷勝手次第 役屋敷外えハ人馬役不住 依て商人宿屋のみ也」とあり、宿の町並表通りの家屋敷は、伝馬屋敷、歩行屋敷、夫士屋敷というように役屋敷の区分ができていた。即ち 伝馬役人・歩行役人・夫士役人はそれぞれの役に応じて家屋敷がきまっていて、そこに住めばそれぞれの役をつとめる義務があったものと思われる。
しかしそうした義務を負う一方で、権利(特典)も与えられていた。その一つは、伝馬屋敷に住む伝馬役人は、旅籠屋を営むことができ、その他の者は出来なかった。また尾張徳川家から給される年三〇両の救金・その他の給付の分配にあずかることが出来た。このことは夫役の義務を支えるための権利付与と見做すこともできる。
享和元年(一八〇一)の「御分間御絵図御用宿方明細帳」によると、「一 御定り人馬之分 但 馬之儀ハ御伝馬役株之者相勤申候 人足之儀ハ歩行役株之者相勤申候」(市岡家文書)と書かれている。馬役は伝馬役株、人足役は歩行役株のそれぞれの所有者が勤めてきたということである。伝馬役・歩行役は、役株として取扱われるようになったことがわかる。
淀川ゟ東 夫士屋敷計り 然ル所 寛保四年 後藤平(兵)左衛門・林謙収宅地之住吉屋佐兵衛居家、四郎兵衛分ト替地願済ニて歩行役人 西新町ニ夫士アリ 間半兵衛宅ノ西ノ小路ゟ東ニ伝馬屋敷なし 治郎七分歩行之処 折右衛門分伝馬ト替地ニ成ル依て東新町ニ伝馬屋敷アリ(中川旧記)
要約すると、淀川町・茶屋坂町は夫士役ばかりの町であったが、寛保四年(一七四四)の替地によって、歩行役が入って来て、そのかわりに西新町にも夫士役ができた。間半兵衛宅(新町ダイイチ西尾電器)の西の小路より東には伝馬屋敷はなかったが、替地によって東新町にも伝馬屋敷ができたと記している。役屋敷が移動していく事例が述べられている。本来、伝馬役・歩行役は、持高(即ち田畑)と家屋敷とが結びついていたのが、田畑や屋敷が売買され、或は流質となって、それぞれが離れて役株が一人歩きするようになったのではないだろうか、問屋分と庄屋分の伝馬役株以外は、ほとんど全部が○○分と分付があって、役株の移動が大きいことを示している。