<延宝期>

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延宝三年(一六七五)二月に道中奉行下役が来津した折に提出した「中津川宿書上」によると、
 
 一 御伝馬 五拾疋  内九疋 只今不足馬
       四拾壱疋 只今有馬 内弐拾五疋から尻馬
 一 歩行役 五拾人 宿人足               (市岡家文書同前)
 
となっている。幕府の役人が中津川の宿役人を呼び出して、五〇匹の伝馬はきちんと揃っているかとの尋ねに、宿役人は宿馬が三六匹・枝郷馬が一四匹あり、伝馬が多く必要な時は枝郷から呼び寄せると答えた。「宿書上」を見た幕府役人から、不足馬から尻馬が多いようだが、どうするのかと説明を求められた時、宿役人は尾張徳川家へお願いして、借金をして本馬を備える予定であると答えたという(前掲書)。同年三月中津川宿から尾張徳川家の御伝馬奉行への訴えの中で、幕府役人への書面では伝馬五〇匹・人足五〇人のつもりで報告したが、当座の馬購入代、飼料代、馬方や人足の米代を貸していただいても五〇人・五〇匹を備えることは困難と考えられるから、三六人・三六匹にして欲しいと述べている(前掲書)。
 延宝二年幕府から中津川宿の伝馬役人・人足役人への貸金があったが、その割付を見ると、伝馬役三六人、人足役一一一人に配分している。延宝三年の「尾州ゟ御救金割付仕覚」によると、尾張徳川家からの救金三〇両が、伝馬役人三六人に貸し与えられた時、一一人が断ったので二五人に配分をしたと報告している(前掲書)。こうして見ると、延宝初年頃は、実際にいた伝馬役人は三六人で、伝馬も三六匹であったと考えられる。