元禄二年(一六八九)の中津川宿書上によると、
一 高千三百三拾四石六斗三升 中津川宿高
一 馬数 五拾疋 同所宿馬 内 三拾疋有馬 九疋よわ馬、拾壱疋 当分相求申迠不足馬
一 人足 五拾人 同所宿人足 (市岡家文書同前)
と書かれている。実際にいる馬は三九匹で、うち弱馬が九匹、本馬として使用できそうなのは三〇匹であった。宿人足は五〇人そろっていたようである。元禄五年頃のものと推定される中津川宿書上によると、
一 地子免無御座候
四拾弐軒 伝馬役人 九拾軒 歩行役人 弐軒 問屋弐人 四軒 年寄四人 壱軒 庄屋 五軒 定使
と書かれており、元禄五年(一六七二)中津川宿の伝馬役人たちから同宿年寄役に提出された「奉願口上之覚」によると、
一 先年御訴訟申上候て当宿馬役四拾弐疋之内 六疋休ミ馬ニ被仰付 三拾六疋ニて御伝馬相勤申候 (以下略)
一 今度御訴訟申上候ハ三拾六疋立馬之内 又六疋休ミニ被遊 三拾疋之立馬ニ被遊可被下候 (以下略)(市岡家文書同前)
と願い出ている。伝馬役は四二役(四二軒)つくっておきながら、伝馬は実際には年々三六匹を常備して勤めているが更に六匹休み馬にして、毎年三〇匹を常備立馬するようにしたいと、伝馬の軽減願いをしている。元禄七年(一六九四)宿救金三〇両が支給された時、伝馬役分は四二人で割付している。元禄一一年(一六九八)一二月付の市運上金の報告では「中津川町市運上金伝馬役四拾弐人」と書かれている。従って元禄期には、伝馬役は四二人であったことは間違いない。また四二役・四二匹のうち一二匹休み馬にして、三〇匹常備という願いは実現したかどうか不明であるが、享保一六年(一七三一)落合宿の申合せによると、翌年より伝馬役は 「弐年勤 壱年休筈」と、三年に一年休役する取決めをしている(岩田家文書差出申一札之事)。しかもこの取決めは、中津川宿の問屋・庄屋等が落合宿の宿役人と伝馬役・歩行役の間に入ってまとめたものであるから、中津川宿の経験が生かされているものと思われる。そう考えると先に述べた、中津川宿の伝馬四二役(四二匹) 一二匹休み馬、三〇匹立馬(常備)という伝馬役人の願い出は実現していたものと考えてよいであろう。