寛政年間に著わされた「濃州徇行記」によると、幕府から定められた宿馬は二五匹、宿人足は二五人であると述べ、その根拠は万治四年(一六六一)・宝永元年(一七〇四)の道中奉行の条目であると述べている。助郷高の項では、宿人馬二五匹・二五人を使いきったら、助郷にてつとめると述べている。「濃州徇行記」は著者が、尾張徳川家の国方吟味役、大代官などをつとめていた時に書かれたものであるから、宿立人馬二五人・二五匹というのは、尾張徳川家の地方役所の見解と考えられる。安永年間までに著わされた「地方古義」の落合宿から鵜沼宿までの宿立人馬数についての見解も、これと同様と考えられる。