<天保・弘化期>

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天保~安政期の「中山道宿村大概帳」の中津川宿の頃では、「宿建人馬 五拾人 五拾疋 内三人三疋 囲人馬」となっている。この大概帳の家数・人口の調査が、天保一四年改となっているから、その直後のものと考えられる。天保一四年(一八四三)には、道中奉行の役人の回宿があって、幕府の定め通り五〇人・五〇匹の常備を厳しく迫られ、その旨約束したので、その時の報告がもとになっていると考えられる。
 天保一四卯年 御勘定町田孫四郎様御廻宿之砌 五〇人五〇疋立揃候様厳敷被仰付 無拠御請奉申上候得共 元来困窮ニて御定通 立揃兼候付 以前之通廿五人廿五疋立置 其餘ハ日々近在人馬雇揚ニて 日〆帳合仕埋候 (市岡家文書)
という状態で、決まり通りの五〇人五〇匹の立揃(常備)をすることを約束したものの、その通りにすることは困難であったので、従来通り伝馬二五匹・人足二五人を常備し、日々の不足分は近在の人馬を雇い上げて埋めあわせ、人馬継立の日〆帳には、規定通り常備してあるように記録していたようである。しかしこの記録に続いて、人馬を雇う金額がかさんで来たので、領主に嘆願をした結果、なにがしかの手当金の支給を受けた。それでも不足が出たので高割にしたと記しているから、負担がかなり重くなったものと察せられる。