<嘉永以降>

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中津川・落合両宿では、元来困窮難儀な宿であるから、幕府の定め通り五〇人・五〇匹の人馬を常備することは不可能であると、領主の尾張徳川家の役所へ嘆願をした。その直後嘉永元年(一八四八)には、道中奉行の役人荻野寛一らが回宿して釆て、宿駅と助郷村の各代表を集めて話合せた結果、
 
 宿立人馬五十人五十疋之内 三人三疋囲之分引之 残り四拾七人・四拾七疋之内人足拾七人・馬拾七疋助郷村々ニて余荷相勤残り三拾人・三拾疋之分 日々宿毎御継立仕 其余之分助郷村々え触当 為相勤候積 双方申分無御座熟談行届…(市岡家文書為取替證文)
 
ということになった。規定の宿立人馬五〇人・五〇匹のうち、三人三匹は囲人馬として備え、四七人・四七匹のうち、人足一七人・馬一七匹は助郷村で、余分の勤めをして宿駅を助けることにし、三〇人・三〇匹の分を各宿で毎日継立、それ以上に人馬が必要な時は、助郷村へ割当てる触を出して勤めさせるということに話がまとまった。
 天保一四年(一八四三)に宿立人馬五〇人・五〇匹の徹底が計られ、嘉永元年にその手直しがなされたと考えられる。従来の中津川宿・落合宿の宿立人馬について、嘉永元年(一八四八)には、人足二五人・馬二五匹を常備し、うち三人・三匹を囲人馬として備え、二二人・二二匹で「折返し」継立を勤めて、五〇人・五〇匹に近づけ、それで間に合わない時には、不足分を助郷村から臨時に助力を得て来たと述べている。万延元年(一八六〇)一〇月の「乍恐御尋ニ付奉申上候御書」(市岡家文書)には、五〇人・五〇匹を常備することは、昔から不可能であったので、二五人・二五匹を常備して「繰返し」継立をして、五〇人・五〇匹にしていると主張している。すなわち二五人・二五匹を落合宿や大井宿へ一日に二度・三度と往復継立させることで、五〇人・五〇匹を常備しているということにしている。しかし実際には、嘉永二年(一八四九)以後も、伝馬役は四二役であり、両問屋・庄屋分の伝馬役を合わせて四五役(軒)であったことは、嘉永三年分の「二割増御利足割符帳」の「銀六百弐拾六匁四分九厘 右ハ両問屋・庄屋・伝馬役株〆四拾五軒ニ割」(森家文書)によって明らかである。
 嘉永七年(一八五四)一二月に決められた、翌年の「寅年御伝馬請判帳」においても、伝馬役渡と請役の項で述べたように、伝馬役は丸立で四二役であった。
 安政五年(一八五八)一二月に配分された、前年分の「二割増御利足」の配分方法の記録によると、両問屋と庄屋分を除いた伝馬役は四二役であった(水垣家蔵文書)。
 この四二役の中から、嘉永元年の「為取替證文」で約定した如く、三〇人・三〇匹を常置し、三人・三匹の囲人馬と合わせて、三三人・三三匹を常置していたのが実情であった(前掲、嘉永七年「寅年御伝馬請判帳」で明らか)。