このように見てくると、中津川宿では寛文五年頃、安永・寛政年間には、宿立人馬は二五人・二五匹であって、それは万治四年(一六六一)と宝永元年(一七〇四)の道中奉行の条目に依拠していると主張している。延宝元禄以降は、宿立人馬五〇人・五〇匹としながら、人足五〇人は常備できても、伝馬五〇匹を常備することは大変困難との理由で、救金などを得ながらも、伝馬四二役を常備し、その上に毎年六匹または一二匹の休み馬を設けて、三六匹または三〇匹の伝馬で継立を行ってきたようすである。天保一四年(一八四三)以後の五年間ほどは、五〇人・五〇匹の常備を迫られたが、それだけの人馬を備えることは不可能であったので二五人・二五匹でもって継立を行い、不足分は近在人馬を雇い上げで賄って五〇人・五〇匹を常備しているかの如く帳尻を合わせて来たということである。嘉永以後においては、実際は前述したように、二五人・二五匹ではなくて、人足は一一〇~一二〇人ほどを常備し、伝馬の方は四二役を決めておいて、毎年三〇匹と囲馬三匹をあわせて三三匹で継立を勤めていた。これは始期は明らかではないが、少なくとも元禄五・六年以来の常備の伝馬人足数に近似している。
実際にはこのように運用しながら、また一方では五〇人・五〇匹の常備は不可能であったので、その二五人・二五匹を継立に使い切ったあとそれでも伝馬が不足した時には、その二五人・二五匹を「折返し」或は「繰返し」継立に使うという方法が、この宿の仕来りであったと主張している。
それほどにまでに五〇人・五〇匹を常備することが困難であり、伝馬の負担が過重であり、それが伝馬役人を困窮に陥らせるものであったことを物語っている。伝馬丸役の負担不可能な者には伝馬半役の負担をという形をとっても、伝馬役を丸立で四二役常備することがやっと可能であったこと、それでも毎年の負担は過重であって、交代で毎年六匹ないし一二匹の休み馬をして三〇~三六匹ほどの常備馬で継立を行うことが精一杯であった。それでもなお且つ負担が多く、二五人、二五匹を要求するほどであったこと等を物語るものであろう。
伝馬を常備することは、四〇貫の荷物を背負って山坂を越え得る本馬を持つことで、それに耐え得る馬を購入しなければならない。しかも馬が老令化で弱くなったり、病弱になれば買い替えなければならない。飼育するには大量の秼(草)や大豆が必要である。更に伝馬には馬方がつかなければならない。延宝三年(一六七五)三月、中津川宿が尾張表の郡奉行所に提出した明細書(市岡家文書古来留帳)によれば、本馬一匹の購入代が金三両、本馬一匹の飼料代が豆葉、こぬか、薪代を含めて、一日分一二七文、三五日分で二両であるから、一年分一〇両余。飼料用大豆代が一日一匹一升ずつで一年分三両二分二朱ほど。飼料代の合計が一三両二分二朱。馬方の扶持米が一日につき米五合、一年分で一石八斗二升五合、その代金二両一分余。飼料代と馬方扶持方米代合計で約一六両である。その年の米相場一石が一両一分であったから、金一六両は米一二石八斗ということになる。前述の中津川宿の明細書によって計算すれば、馬一匹の飼料代と馬方の扶持米代のみで、中田一町歩の収穫米相当を要したのである。伝馬役一役がいかに重い負担かという目安になろう。
伝馬役に出ても、駄賃かせぎがそれ相当にあれば、負担も過重ではない。しかし中山道は御用通行が多い街道で、無賃や低廉な御定賃銭の継立が多かったという。その上に旧暦の四~五月の通行量の多い時に大通行もあって、その時、多くの伝馬・人足が集中的に必要ではあるが、平生は人馬の継立が少ないので、駄賃銭のかせぎが少なかったということである。また、商荷物などの相対賃銭(時の相場)による継立も少ないので、平生の口過ぎ(生計)ができないとも言われた(市岡家文書古来留帳)。
このように、宿立人馬をめぐる歴史は、宿駅の経営・存続、伝馬役・歩行役の維持・継続をめぐる、宿駅の苦労、伝馬役人たちの苦心の凝縮の歴史の観を呈している。