歩行役は人足役ともいい、人の背や肩で荷客を持ち運ぶ義務を負うものである。運んだ荷客とはどんなものであっただろうか。享保七年(一七二二)七月、道中奉行彦坂壱岐守が大坂からの帰途、中山道を下向した折の触状と、延享四年(一七四七)七月、大坂御番百人衆が上る時、酒井飛驒守御用として宿より出された触によると、人足数とその内訳は、次のようであった。
(享保七年七月)
覚
一 御朱印人足 八人 賃人足 拾三人
合人足 弐十壱人
内 四人 山駕籠 壱挺
十人 長 持 二掉
五人 合羽かご持・雨具持
壱人 沓蔵持
壱人 茶弁当 (市岡家文書)
(延享四年七月)
乗物 拾三挺ニ 人足 七拾人程
山かご 廿挺ニ 人足 六十人
長持 十一竿ニ 人足 六十六人程
分持 人足 六十人
(篠原家文書)
と記されている。歩行役は、乗物(武家用の駕籠)、山駕籠、長持、合羽・茶弁当などの分持荷物を担ぎ、背負う人足に出る役である。
中津川宿ではどういう人が歩行役を負担したのであろうか、宿民の持高の多少を基準にして、伝馬役や歩行役の負担者を決めたということは前述の通りである(伝馬役参照)。歩行役の負担者の持高については、元禄七年(一六九四)の「尾州ゟ被下置候御救金割符之覚」の記載を見ると、「町小役人之内ニて大高 中高 小高三段ヲ拵候ヘハ三石めど出申候……」とある(市岡家文書)。町小役人とは歩行役・ほうし役(夫士役)のことであるが、町の小役人に三段階あって、「三石めど」というのは平均中位持高と解することができるから、中高が持高三石前後と考えることができる。救金配分の比率等を参考にして、歩行役は持高が三~六石程度、ほうし役(夫士役)の持高は一~二石程度であったと推定される。歩行役人は中津川宿の町並に住んでいる持高三~六石ほどの小農民、あるいは農業を兼業とする小商人であったとも思われる。持高三~六石の田畑を持つ歩行役人の屋敷が歩行屋敷であり、やがて、その歩行役が役株となって、役株の所有者が歩行者の負担者であった。その歩行役株も人から人へと移動していくようになったものと考えられる。
伝馬役にくらべて、歩行役は馬の購入、買替する資金の必要、秣草刈り、飼料の購入、馬士の雇用等の必要はない。この点では、伝馬役程の負担ではなかった。しかし負担・つとめは必ずしもらくではなかった。御用通行では賃銭の支払いを受けない(無賃)出役が多く、添人足や御馳走人足が多くなっていくと賃銭の配分は少なくなる。また幕府役人、なかでも御茶壺・二条御番衆・大坂御番衆など幕府役人の家来などは、主君の権威をかさに着て、入魂(じっこん)人足を要求し、無理難題をおしつけて人足賃を支払わないことも多かったという。
また元禄年間の中津川宿から、尾張の郡奉行への嘆願書によると、伝馬の不足している時には、伝馬が運ぶ四〇貫の荷物駄荷を八人の人足で運ばなければならない。そんな時は駄賃銭を八等分するので、一人当りの人足賃が少なくなってしまうと嘆いている(伝馬等の嘆願と申し合わせ参照)。
次の史料は、中津川宿役人らが、持高四~五石の歩行役人の役継続が困難であるから、それに対する方策の必要を、地頭山村家の中津川代官に提出した文書である。
覚
一 高四石三斗四升九合 安右衛門
一 高四石九斗弐升三合 五左衛門
(三名略、高付各四石四斗五升壱合、四石八斗六升八合、四石四斗六合)
一 高五石壱斗壱升 弥三左衛門
一 高四石五斗五升四合 住五衛門分孫兵衛
一 高五石壱斗四升四合 三次郎分茂右衛門
右之通り八人之者共何れも少高役人共にて 御役立かたく迷惑仕候 右之者共奉願候ハ歩行役壱人宛御加ヘ被遊被下候様ニ年々願申候 然共歩行役之儀御潰被遊候事も難奉存 取次不仕指置申候得共 田畑之助成無御座候ヘバ 以後ハ左様ニも不被為仰付候ハ御役立申間舗と奉存候 已上
元禄五年(一六九二)申二月 (問屋二名、庄屋・年寄二名連署)
堀尾作左衛門殿
原 茂左衛門殿
(市岡家文書古来留)
持高四石~五石余の歩行役人が役の負担することが困難になってきたので、本人たちは歩行役人にもう一名ずつ加えてほしい。そして二名で歩行一役を負担することを願い出ていたが、歩行役を潰してしまうこともできないと考えて、その旨を報告しなかった。しかし今や「田畑の助成」を受けなければ、歩行役の負担を継続することができないと述べている。田畑の助成の内容はわからないが、とにかく持高四~五石の小農民、小商人が歩行役を負担することは、相当に困難であったことを示すものであろう。歩行役株の所有が同一家に留まらないで、ほとんどが他へ移動していること、歩行半役が多いことはその間の事情を物語るものであろう。