在郷の歩行役

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中津川宿の歩行役は、宿町並の歩行役人のみで勤めたのであろうか。元禄六年(一六九三)の幕府の巡見使の質問に対する、中津川宿役人の答は、
 歩行役之分 町ニ罷有候歩行役人ニ壱廻り御役仕らセ候ヘハ 在郷へも一廻り仕らせ申候旨申上候 (市岡家文書古来留帳)
宿の町並に住む歩行役人に一回り勤めさせた後、在郷の歩行役人にも勤めさせていると答えている。すると幕府の役人は、中津川宿は町も広く人口も多いから、助郷村から人足を呼び寄せる必要がないのではないかと尋ねた。それに答えて、中津川宿の役人は、町並は長いけれども、町と在郷を合わせても高持は一二〇軒にも満たないので、通行量が多く継立が頻繁な時には在郷の高持の農民にも歩行役を勤めさせている。その外の水呑百姓には勤めさせることはできないからである。今迄通りに助郷村から人馬を寄せても、継立に人馬が不足しているのに、助郷村からの人馬よせをやめて在郷の歩行役を集めるだけでは、この宿の継立業務を遂行することはできないと宿役人が主張した。すると幕府役人からは応答がなかったということである。
 こうした考えのもとに、中津川宿では宿町並の歩行役人のみでなく、在郷にも歩行役人をおいて、人足による継立てに従事させていた。では中津川宿の歩行役数は何役(人)くらいあったであろうか。
 延宝二年(一六七四)幕府からの拝借金の配分の折の記録には、「…人足役百拾壱人……」
 元禄一五年(一七〇二)三月の「尾州ゟ年々被下置候御救金割符之覚」によると、「歩行役、百十九人半ニ割……」(市岡家文書)
 嘉永四年(一八五一)の「[戌年分二割増]ニ御利足被下置候分割符帳」には、「…町・在歩行役 夫士役〆百拾三軒七分五厘ニ割…」(森家文書)
安政五年(一八五八)の「割符帳」によると、
安政四年分の町在の歩行役・夫士役合計で、「百拾四軒弐分五厘」(水垣家蔵文書)
となっている。中津川宿の歩行役は、江戸中期の史料には欠けるが、一七世紀後半の延宝年間から幕末まで、町・在郷の歩行役・夫士役を合わせて一一〇~一二〇軒(役)であったことがわかる。