嘉永三年の歩行役

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中津川宿の歩行役人全員の名前が判明するのは、現在までのところ嘉永三年(一八五〇)と安政四年(一八五四)の記録のみであった。嘉永三年の歩行役を表にすると、Ⅵ-76表のようである。

Ⅵ-76 嘉永三年(一八五〇)の歩行役(中津川宿)

 歩行役というのは歩行一役でもあり、一人で一年間の歩行役を負担するものである。歩行半役は歩行丸役の半分のつとめをすると共に、救金等の配分の折も丸役の半分の配分を受ける。歩行二分五厘役は丸役の四分の一、半役の半分のつとめをするもので、配当も歩行丸役の四分の一である。
 Ⅵ-76表によると、丸役・半役・二分五厘役を合わせて五九軒である。役株数は、歩行丸役が三一株、歩行半役が五〇株、歩行二分五厘役が三株である。丸役よりも半役の方が圧倒的に多くなっている。しかし半役・二分五厘役を丸役に換算すると半役は二五役、二分五厘役は〇・七五役となる。町分の歩行役全体を丸立にすると五六・七五役となる。但し町分であるが北野○○分というのが二役含まれているようである。「中川旧記」には、恐らく幕末の数であろうが丸役が北野に二役、実戸に一役あると記されている。いずれにしても丸立二五役分が半役になっているのであるから、歩行役の細分化が進んでいる。こうした事が行われるようになったのはいつ頃かわからないが、歩行役の負担が重いため、歩行役一役を二人で負担するということにしたものと考えられる。もう一つの特徴は、岩井助七ら数人へ何株も集まっていることである。この人たちは中津川の豊かな商人であるから、歩行役を負担できない人の分を、これらの商人が負担するということになったものと考えられる。
 歩行役人は、どのような形で歩行役を勤めたか、伝馬役人のようにお金を出して、業務を請負わせたか現在までのところはっきりしない。役株を多く持つ商人は、伝馬役も兼ねており、手広く商業を営んでいて、自ら歩行役に出役できないから奉公人を出すか、日傭人足を雇うか、年間契約で業者に請負わせる等をしたのではないかと考えられる。他の歩行役人も、自ら或は自家の者を出役させる等の形態をとったものと考えられる。
 幕末の中津川宿には、伝馬の請負業者だけでなく、人足の請負業者がいたようである。次の史料は文久三年(一八六三)九月、中津川宿の問屋・年寄から、太田代官所へ提出された人足請負賃銭の下付督促の願書である。
 
  先般元千代様被為遊御帰国候節 御長持為御通相成候御請負賃金 請負人え人足ゟ段々厳敷催促仕 無拠所々ニおゐて時借等仕夫々相渡置候処 右金主ゟ請負人え返済方段々催促有之候 (中略)右請負金急卒御下ケ金被成置候様 幾重ニも奉願上候 (市岡家文書)
 
 このように人足請負人が存在したということは、少なくとも幕末の中津川宿には、人足の仕事をして生活する者が相当数いたことを示している。歩行役人も賃銭を払えば、これらの人足を何らかの形で雇うことができたのである。
 しかしここで付記したいことは、御用で京都・大坂の赴く幕府役人や参勤交代の大名たちの中には、人馬をすべて各宿駅で調達したのではないということである。江戸や京・大坂などの口入業者に人馬での輸送を請負わせることがあり、江戸から国許まで、或は京都・大坂から江戸までと、通し人足を雇い入れることも多かった。これを通し日雇人足といい、上下の者とも言った。これらの者が、その雇い主の権威を借りて無理難題をおしつけ、横暴な振舞いをたびたび行って、宿駅や助郷の馬士や人足を困らせたこともあった(市岡家文書・児玉幸多近世交通史の研究)。