夫士役(ほうし役)・その他

1217 ~ 1223 / 1729ページ
中津川宿には伝馬役・歩行役のほかに夫士役・ほうし役などと言われるものがあった。どういう任務をもったものだったか。元禄一六年(一七〇三)五月の「御上使様御下向ニ付諸事覚」によると、「御泊り之旅籠仕立 常々ニ少念入 壱汁三菜 肝煎はかま羽織にて十人斗 ほうし役四五人 上物上ケ候へ共納り不申候」(市岡文書)と記され、勘定頭・目付の泊った宿である市岡長右衛門家・勘助家では、ほうし役が四~五人働いていたと解される。さらに「御休泊留記」によると、
  文政一〇年(一八二七)四月五日 日光例幣使岩倉宰相が本陣に宿泊した折 「下ほうし四人」
  文政一二年(一八二九)正月一二日 福島貞俊院・松之進ら上下三〇人が本陣宿泊の折 「夫士申付八人」
とある。これら「ほうし」「夫士」は、どんな仕事をしていたか、その内容と考えられる記録の二・三例をあげると次の通りである。
  文政一三年(一八三〇)正月二二日 幕府普請役・吉川幸七郎らが宿泊した時 「料理人壱人 御給士三人 下働壱人」
  弘化二年(一八四五)五月一二日 大坂町奉行・永井能登守が宿泊した時 (御本人手代弐人 下働三人 宿送上下弐人 羽織袴弐人先払弐人
  嘉永五年(一八五二)八月一二日 飛驒郡代が宿泊した時 「村方ゟ給士弐人、下働弐人」 (御休泊留記)
 幕府役人や大名が宿泊した本陣や旅籠屋では、料理人・給使・下働き・宿送・先払等が必要であったのであるが、これらの仕事をほうし役や夫士役が勤めたものと考えることができる。
 この例が示すように、宿場町で継立や宿泊の業務をしていくには、問屋・年寄役・伝馬役・歩行役の仕事のほかに種々雑多な仕事があった。先述のほか、自身番所・夜番所などの番人、火の番、大水の出た時の橋番、遠見、案内(役)、先払、杖突、七里持人足、明松渡し、油つぎ、薪請取、蚊屋請取、魚つり等々の文字が記録に見られる。これらのすべてがほうし役、夫士役の仕事であったかどうか明らかではないが、かなりの部分が夫士役に当てられたと考えられる。
 平素はこういう種々雑多な仕事をしながら、大通行の通には人足役にも出役するのが、夫士役(ほうし役)であったと見なされる。諸事小役がぴったりの名称であった。だから歩行役一一九人半などという時には、歩行役の中にほうし役・夫士役が含められていた。そして救金等の配分を受ける資格も与えられていて、歩行丸役の四分の一の配当を受けた(市岡家文書 森家文書)。
 寛文五年(一六六五)の中津川宿書上では、次の様に「諸事小役」となっている。
 
   拾三軒 諸事小役  三十五軒 無役  六拾壱軒 新町
   外ニ七拾三軒 中津川高の内 方々壱軒ツツ罷有在郷家数 諸事小役仕候 (市岡家文書)
 元禄七年(一六九四)・元禄一七年の「尾州ゟ被下置候御救金割符之覚」では「ほうし役」となっている。
  一 金三拾両 元禄七戌三月四月名古屋ゟ被下置 割符弐拾壱両 伝馬役人四拾弐人分、……
     九両   人足役 町在郷ほうし役共ニ  (以下略)(市岡家文書)
 嘉永四年(一八五一)の「[戌年分二割増]御利足被下置候分割符帳」等では「夫士役」となっている(森家文書)。
 
 元禄二~五年頃と推定される中津川宿書上では、「三拾壱軒 水役の者」となっている(市岡家文書)。
 嘉永三年(一八五〇)の夫士役を表にすると、Ⅵ-77表のとおりで、この表で明らかなように夫士役は二七人で二八役である。夫士役も、伝馬役株・歩行役株を持つ羽間杢右衛門や勝野七兵衛、林謙収(医師)などが兼役している。安政五年になると勝野七兵衛が三役を負担するようになる。町分の歩行役・夫士役は、以上述べて来た仕事のほかに、次の様な仕事も含まれていた。

Ⅵ-77 嘉永一三年の夫士役(中津川宿)

        覚
 一 中津川宿                              定助場所
     但高千三百三十八石     上金・中村・佐根戸(実戸)
   九十弐人 有之
      壱人 上金御番所 小 使
    内 壱人 上地御番所 七里持
      半人 中津川御代官所小使[毎日引]
   残て八十九人半
   右両宿人馬次ニ定助人足払其上 大助触当之事     (市岡家文書)
 
これによると、町分の歩行役、夫士役の中から、一名は上金の白木改番所の小使に、もう一名は駒場側の上地にあった同じく尾張徳川家の川並番所の七里持人足に出ており、あと半人分は、地頭山村家の中津川代官所の小使に出ていたということがわかる。但し「中川旧記」によると、上地番所には「年中之小使 村方ゟ出ル 役金弐両 仁左衛門分林蔵家 助右衛門分茂右衛門家 歩行役ニ向ケル」とあり、上地番所へも七里持としてでなく小使として、林蔵家、茂右衛門家から勤め、そのつとめを歩行役の中に入れていたものと考えられる。
 以上が町分の歩行役と夫士役であるが、この外に在郷にも、歩行役・夫士役の両方があった。元禄七年(一六九四)には「人足役、町・在郷ほうし役」、「町・在郷歩行役」と書かれていることからも明らかであり(市岡家文書)、他にも、嘉永三年(一八五〇)「町・在郷歩行役・夫士役」と書かれ(森家文書)、「中川旧記」にも二割増御利足割付の項に「町在歩行夫士百十三軒七分五厘割」と記されていることなどから、在郷に両役があったことは明らかである。
 在郷の歩行役・夫士役は、前記の諸記録では、在郷の小村別に役数が記されている。嘉永四年の「[戌年分二割増]御利足割付帳」には、利足の配当額と共に、次のように記されている。
 
  一 弐拾六役        中 村 印
     五貫弐百五十弐文
  一 拾壱役         実 戸 印
     弐貫弐百弐十弐文
  一 五役          上 金 印
     壱貫拾文
  一 五役          北 野 印
     壱貫拾文
  一 三役          子 野 印
     六百六文
                    (森家文書)
 
 この史料は、中村についてみると、歩行諸役・夫士役が歩行丸役分に換算して二六役ということである。従って、「二割増御利足」の配当が歩行丸役の一役分二〇二文の二六倍である五貫二五二文となっているのである。これによって、在郷の各小村の役数は、歩行役・夫士役ともに丸役に換算して一括して記されていると解することができる。また中津川村の在郷の村々では、町分(宿分)の歩行役・夫士役が勤めたあと、歩行役・夫士役の勤めをしていたことが、ここからも確認できる。尚「在役」・「在小役」というのは、在郷の歩行役・夫士役に、川除人足などの諸負担も含めたものであったと考える。
 元禄七年・嘉永三年・安政四年の町分の歩行役・夫士役の役数と在郷のそれをまとめたものがⅥ-78表である。

Ⅵ-78 歩行役・夫士役の町・在郷別役数 (中津川宿)

 元禄一五年(一七〇二)の「尾州ゟ年々被下置候御救金割符之覚」に記されている、「歩行役 百十九人半に割壱軒分…(略)…」の文中の一一九人半は、表中の元禄七年で見るとおり、町分の歩行丸役・歩行半役・歩行二分五厘役、夫士役、在郷の歩行役・夫士役をすべて、歩行丸役に換算した「丸立役数」の合計数であったのである。嘉永三年・安政四年の一一三軒七分五厘、一一四軒二分五厘も、同じように計算した数であった。一八世紀一九世紀前半の史料に欠けているが、この歩行役・夫士役の丸立役数は、年々多少変化するものの一一〇~一二〇役の間で維持されていたと考えられる。そう考えると歩行役・夫士役の負担の方法は、歩行役が細分化され負担者が変わり、豊かな商人に集中するという傾向を持ちながらも、元禄七年頃から幕末まで大筋変わらなかったといえそうである。因みに、元禄七年(一六九四)は、幕府から「中津川・落合町助郷帳」が下付され、助郷制度が確立し、尾張徳川家から毎年救金三〇両が支給されるようになった年である。