中津川宿の嘆願(元禄三年)

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元禄三年(一六九〇)四月、中津川宿問屋の長右衛門と次郎右衛門は、中津川宿の困窮と伝馬・人足の継立困難の状況を述べて、伝馬役・歩行役への年々の救金下付を領主である尾張徳川家の郡奉行に嘆願している。その趣意はおよそ次の様である。
(1) 中津川宿は、近年殊の外困窮し、人足役の者が草臥(くたびれ)て役を勤めることが困難になっている。隣宿の落合・大井宿へは山坂の多い、石地の通行困難な所で、大変難儀をして人足の継立をしている状況である。こんなわけで伝馬役の者全体の持馬が二〇匹程になってしまい、そのうち一駄荷物を付け送りできる本馬は一四~五匹しかなく、大変困っている。
(2) 中津川宿は、近年次のような伝馬・人足の継立の御用を他宿なみに勤めている。
 ① 上松役所の御用=寛文五年(一六六五)に上松に新設された尾張徳川家直属の材木方役所の役人や文書を継立る伝馬・人足をつとめている。
 ② 大井役所の御用=大井村におかれた尾張徳川家直属の陸上木曾材番所の役人や文書の継立。
 ③ 信州佐竹御用=尾張徳川家の第二代光友の二男松平摂津守義行が、五代将軍から新知三万石・高須城を拝領したが、その高須松平家が信州伊那郡に領有した四八か村、一万五千石を管理した佐竹陣屋の役人や文書の継立。
 ④ 木曾産出の木具柾の宿継御用=裏木曾(加子母・付知・川上)を含めた木曾山から産出された土井が、美濃地方では木具柾と呼ばれていた。その木具柾の伝馬による陸上搬送を行う継立、兼山または土田まで陸送で、そこから舟による輸送か(信濃第三五号・八号 市岡家文書等)。
(3) 中津川宿役人は、年々米を九四~五石ずつ借用して、馬役・歩行役の者に割付け渡して、役を勤めさせてきた。近頃は毎年のように不作続きで、草臥が一層増している。中津川宿の伝馬・歩行役人のほとんどが困窮に陥り、本町でも間口五~六間あって、持高五~六石ついている屋敷が二~三軒、明家になってしまった。望む者には無料で与えると言っても、伝馬役・歩行役を勤めることが不可能を理由に、貰ってくれる者がない状況である。その上、地頭からお手当があっても伝馬役・歩行役が成り立っていかないので大変困っている。
(4) このように伝馬役が不足しているので、一駄の荷物四〇貫を人足で運ばせている。そうすると中津川宿から大井宿迄の本荷一駄の駄賃銭八二文を八人で配分するから、一人分がわずか一〇文ほどになってしまうので迷惑である。
(5) このようにして、伝馬役・歩行役を勤めることが不可能になる者が年々数多く出て、宿駅の継立業務が継続困難である。だから伝馬一匹に金三両、歩行役一人に金一両二分ずつの救金を下付していただきたい。そうすれば「草臥人馬」を救い出し、御役を勤めることができるようになるので、お願いします。
 右の通り、お聞き届けくださり、お救いくださいというものである。