元禄五年(一六九二)一二月、中津川宿の伝馬役人が連名で、中津川宿の庄屋・年寄役四名に願書を提出し、同宿の両問屋と相談の上、いくつかの事項の承認方を願い出た。
願書の趣旨は要約すると、中津川宿は元禄五年以前から伝馬が四二匹あって、年々六匹を休み馬にして三六匹で勤めてきた。この願書はさらに、六匹を休み馬にして、年々一二匹を休み馬とし、三〇匹の伝馬で伝馬役を勤めるようにしてほしいというものである。通行量が多くて、三〇匹で間に合わない時には、六匹分を雇い馬にして、三六匹づとめにするとして、その方途を述べている。更に通行量が多くて継立が混乱するような時には、当り番でなくても昼夜兼行してでも伝馬を勤めると述べて、一二匹の休み馬の承認を求めている。中山道の普段の通行量の状況からはその方が休みの馬のためだけでなく、三〇匹の立馬の収入増加と安定・維持になると述べている。
この伝馬役人たちの願いがどうなったのか、その結果についてそれを直接に物語る史料は見当らない。伝馬役が四二役で継続していることは、元禄七年と同一五年の「御救金割付覚」、嘉永・安政期の「二割増御利足割付帳」等で明らかである。六匹を休み馬にしての、三六匹勤めを継続したことも、享保一六年(一七三一)の落合宿の申合わせの事例から十分に推測できる。
嘉永元年(一八四八)の中津川宿・落合宿とその助郷一三か村の「為取替證文」によって実行された、宿立人馬三〇人・三〇匹(囲人馬三人・三匹除)の事例及び市運上金で馬を雇うこと(市役馬・市馬)が、この年の中津川宿の伝馬役人の願出に近似していることから考えると、一二匹休み馬・三〇匹立馬の方法も、元禄五年の願出以後に実行されていた慣行ではなかったかと推測される。