宿・助郷取り替え証文

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天保一四年(一八四三)二月、勘定留役の町田孫四郎初め六人が、五街道取締り御用として回宿、二月二日から五日まで中津川に逗留した。その間に天保八年から一二年にわたる五年間の人馬継立総数や、助郷付の人馬勤高などを調べた上で、中津川・落合両宿の宿立人馬を五〇人・五〇匹とし、そのうち三人・三匹を囲人馬とし残りの四七人・四七匹を宿の方で毎日継立てるように取り決めがなされ、取替証文を提出したという。しかしその年の証文は現在残されていないので詳細は明らかでない。しかし嘉永元年(一八四八)の「宿在郷為取替證文」(写)によってうかがい知ることができる(市岡家文書)。
 嘉永元年一一月に、勘定役荻野寛一ら太田宿に六日間滞留して、東美濃九か宿の宿駅役人と助郷村の代表の呼び出しがあり、鵜沼宿から御嵩宿までは話がまとまった。あとの五か宿はまとまらなかった。そこで改めて一一月二五~二六日の二日間、役人荻野寛一らが中津川宿に滞留して、細久手宿から落合宿までの五か宿の宿駅・助郷代表らの話し合いが行われ、示談が成立した。
 前置きの部分に経緯が書かれている。それによると、天保一四年町田孫四郎回宿の節の取決めは、御定通りの宿立人馬五〇人・五〇匹の常備をきびしく迫るものであった。しかしそれは実行困難なことであったので、「御領主様御役場え奉歎願候処」とあるように、尾張徳川家の太田代官所へ嘆願したところ、嘉永元年の萩野寛一らの回宿となったと説明している。
 宿駅と助郷村々との示談の内容は、宿立人馬五〇人・五〇匹のうち、三人・三匹を囲人馬とし、残り四七人・四七匹のうち一七人・一七匹を助郷村々で「余荷勤」をし、残る三〇人・三〇匹を宿駅の方で継立てる。四七人・四七匹を越えた分は、また助郷村々へ触れ当てるというものであった。
 嘉永元年以降は、この取決めが実施されているのであるが、外国船の来航が増加し、やがて開国・尊皇攘夷の中で、幕府役人や大名とその家族・家臣の通行が増大してくると、宿駅と助郷の負担が多くなってくる。そうすると助郷村々では、この取決めの廃棄を宿駅の方へ申し入れるようになり、宿駅と助郷との接渉が度々行われるようになる。