(1) 御朱印 これは宿駅に常備の伝馬・人足の使用を将軍が朱印状によって許可したもので、賃銭を支払わなくてもよかった。御朱印が発行されるのは、「駅肝録」によると 享保八年(一七二三)現在で
一公家衆 一御門跡方 一京都江御使 一勢州江御代参 一大坂御城代替り之節引渡 一大坂御目付 一宇治御茶御用 一[二条大阪]御蔵奉行仮役 一国々城引渡幷巡見御用 一諸国川々其外御普請等見分御用 一京都知恩院(以下略)等
などの場合となっている。伝馬を許可する文書は、伝馬手形・伝馬の朱印・宿送の手形といわれた。
Ⅵ-80 中津川宿の老中連署定書(元和二年)
朱印伝馬手形の交付を受けた者は、これを江戸伝馬町の伝馬所に示すと、伝馬所から通行すべき宿駅に通達されたのである。中津川にある朱印伝馬手形の写には、次のようなものがある。
御朱印
人足八人 馬八疋 江戸ゟ京大坂迠上下可出之 是ハ御用ニ付而彦坂壱岐守様被差遣候時 被下之者也
享保七年子六月十七日 右宿中
覚
一 御朱印馬八疋 賃馬七疋
一 御朱印人足八人 賃人足拾三人
合 馬拾五疋 人足弐十壱人 (内訳 略)
右ハ壱岐分
一 賃人足 七人 賃馬弐疋 (内訳 略)
右ハ我等幷同心中分
右之通 無滞可差出候 以上
寅七月四日 彦坂壱岐守組与力 松木仲造 (市岡家文書古来留帳)
道中奉行の彦坂壱岐守が享保七年(一七二二)六月に所用で、京・大坂に出張し、帰路中山道を下向、七月十日に中津川宿を通行した時の朱印状の写しと先触である。御朱印とある所に、伝馬朱印が押してあるわけである。この朱印状で許されたのは人足八人と馬八匹で、これは無賃である。彦坂壱岐守は先触の「覚」で明らかなように、この外に賃人足一三人と駄賃馬七匹を求めている。これは御定賃銭(公定賃銭)を支払う人足と馬である。
(2) 御証文 証文による人馬の継立は、享保八年(一七二三)の道中奉行の書上によるとその発行者と発行の場合は次のようであった。
○老中の證文 一御状箱御用物品々 京 大坂 長崎 駿府 勢州 尾州 紀州 堺 相州 豆州 日光 佐州
一国々江御奉書御用物 一尾州より鮎御鮨 一勢州御代参之節御箱 一京都江上使之節長持 他
○京都所司代の證文 一御状箱御用 一京都町奉行より御勘定奉行江状箱幷玉虫左兵衛手代下り候節長持 他
○大坂城代の證文 一御状箱其外御用物品々 一大坂御蔵奉行長持
○駿府城代の證文 一御状箱幷熟瓜 茄子 白瓜 竹子 林香 山椒
○勘定奉行の證文 一御上馬幷鷹匠御用 一御猪狩御用 一御薬草国々見分幷持送御用 他
「五駅便覧」に載せられている寛政七年(一七九五)の下知では、道中奉行、遠国奉行の証文などの場合も挙げられている。道中奉行の触書などが宿継で送られているから、無賃の人馬を使用する。従って証文人馬と実質上では、差異がないためであろうと考えている。
右の証文中で「船川渡之所々無滞旨之御証文」とある以外はすべて無賃人馬を使用できたと考えられる。ただし認められた人馬数だけの使役ができただけで、その数を超えた人馬数については、賃銭を支払うことになっていた。
(3) 無賃人馬 前述した道中奉行の触書を宿継ぎで伝達させるような場合である。朱印証文人馬と異って、使役する人馬数は限定しないで、宿継によって伝達さえすめばよいのである。
以上の朱印・証文・無賃はともに無賃銭のものである。これに対して賃銭を支払う場合を、有賃銭とすれば、それには御定賃銭と相対賃銭の二種類がある。
(4) 御定賃銭 幕府による公定の人馬賃銭ともいうべきもので、各宿駅の高札(人馬貫目高札)に、前後の宿駅までの賃銭が示してあるのが、この御定賃銭である。この御定賃銭も公用旅行者のみに適用されて、幕府役人の許可が必要であった。「駅肝録」に収められている享保八年の道中奉行の書面では、「御用ニ而賃伝馬之分」として、
一京都御名代之大名 一所司代 一大坂御城代同御城番 一御三家江之上使 一駿府御城代 一二条大坂駿府在番 一大坂駿府加番 一遠国奉行幷御用ニ而罷越候御役人 一日光例幣使 一公家衆門跡方御使 一大坂堺御鉄砲幷御火消 一美濃御用紙 一越前御用紙 一御代官往来
などがあげられている。日光例幣使などは、京都所司代の証文によって、無賃の人馬を使用できたのであるから、その数を超過した分を、御定賃銭で使用できたと解することができる。五街道取締書物類寄によると、日光例幣使には、文政年代では人足五〇人・馬五匹が証文人馬で無賃であり、その余りが賃人馬になっていた(主な通行参照)。
御定賃銭は元来賃銭を支払う場合に守らねばならない賃銭であったが、一般の人馬労賃に比例してあがらなかったために、御定賃銭で働くことは、すでにその人馬にとって負担が重くなることであった。そのため御定賃銭の人馬の使用も許されている数に限られ、それ以上の人馬の使用は、相対賃銭によったとされている。
(5) 相対賃銭 人馬使用者と人馬の供給者(人足や馬方)との話し合いできまる賃銭という意味であるが、大体において人馬労賃の通常相場であったと考えられる。御定賃銭の人馬数を超過した時には、この相対賃銭での人馬の雇上げとなった。使用者側からすれば、全く個別交渉で雇うより、一括して問屋へ依頼する方が便利であるから、一般的には、問屋を通じて雇上げたといわれる。
中津川宿の問屋市岡家の記録によれば、文久元年(一八六一)六月、東美濃九か宿で次のように定めている。
一 御大名様御通行之節 御定之外 御相対村雇人馬賃銭壱倍増以下ニてハ御請致間敷事
御定賃銭の一倍増、すなわち御定賃銭の二倍以下では請けない約定をしている。また年号は定かではないが、天保・弘化期と推定される文書写に
一 諸家様御相対御雇人馬之儀ハ 倍立之事 (水垣家蔵文書・御用伝馬録三)。
とある。これらのことから、相対賃銭は御定賃銭のおよそ二倍額であったと考えられる。相対で使用する人馬は、宿立人馬ではなく、稼人馬(日雇人馬)を使用する規定であったから、宿駅の問屋場の日〆帳には記載されなかった。従って相対人馬がどのくらい使用できたか、はっきりした数字は残されていない。
このように見てくると、御定賃銭は、相対賃銭の半額であったということであるから、御定賃銭で人馬の継立をすることは、宿駅の伝馬役・歩行役の人たちにとって大きな負担であった。まして無賃人馬に至っては、いかに大きい犠牲を強いられるものであったかが知られるのである。
大名が通行する場合は御朱印・御証文の人馬は認められず、御定賃銭か相対賃銭によらねばならなかった。御定賃銭の場合は、Ⅵ-81表のごとく人馬数が限定されていたので、実際には相対賃銭の比重が大きかった。
Ⅵ-81 参勤大名の御定賃銭使用人馬数
大名の家中になると、東海道では二五人・二五匹、中山道その他では、一三人・一三匹まで御定賃銭の人馬の使用ができ、御三家は、東海道では一〇〇人・一〇〇匹まで、その他の街道では五〇人・五〇匹まで、その家中は万石以下の区別なく、それぞれ右の半分ずつの人馬を使用できた(児玉幸多・近世宿駅制度の研究・丸山雍成・近世宿駅の基礎研究参照)。
文久元年(一八六一)五月、中山道通行時の人馬の継立について、苗木遠山家よりの質問に答えた、中津川宿問屋役の返書(控)によると、
覚
中山道筋之儀 往古ゟ御大名様御通行之節 人足弐拾五人 馬弐拾五疋ツヽ 御家中方御通行之節ハ 人足拾三人 馬拾三疋ツヽ御継立御定ニ御座候 乍去御用柄ニ寄 過人馬御入用之節ハ道中御奉行所江御達為成御聞済之上ハ 右御定高之外 過人馬継立之儀御達次第御継立仕候義ニ御座候 (市岡家文書)
五万石以下の大名の場合、人足二五人・馬二五匹が通行当日の一日分のみ認められていたということになる。これ以外の人馬が必要な場合は、勿論相対賃銭による雇上げをするということであった。
一般旅行者や商用の旅行者が、各宿駅で賃稼ぎ人馬を雇うこともあったが、史料がなくその実態は明らかでない。