御定賃銭の変遷

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御定賃銭の制度が、中山道ではいつ頃できたか、はっきりしない。史料の中で古いところでは、元和二年(一六一六)の中津川宿伝馬定書がある。これによると、伝馬・駄賃馬の積荷は、一駄について四〇貫目と定められ、中津川宿から大井宿まで、荷物一駄について四四文、落合宿へは二四文、そして帰り馬の駄賃も同額であった。人足賃は、人足一人について馬の半分と定めていた。
 この御定賃銭以外に増賃を取ることは、厳しく禁止され、若し違反者がでた時は、その宿駅から過銭として、家一軒について一〇〇文ずつ出させ、当人は五〇日籠舎につながれることになっていた。寛永一〇年(一六三三)の中津川宿高札にも同様なことが定められている。このように見てくると、御定賃銭は初期の頃から存在したことがわかる。その後も変動の度ごとに高札等によって表示された。
 諸史料によって、中津川宿と大井宿・落合宿間のそれぞれ、人馬賃銭の変遷をみると Ⅵ-82表のようになる。

Ⅵ-82 中津川宿人馬賃銭変遷表

 寛永二〇年(一六四三)の増駄賃の理由は「近年鳥目下直付・如比今度駄賃増」となっていて、鳥目(銭)の価値が下がったためである。銭の値が金一両につき四貫文になったら、寛永一九年の駄賃銭に戻すと説明している。
 万治四年(一六六一)三月には、駄賃銭(荷物一駄)一里一〇文増、軽尻五文増(人足も五文増)となり、その理由は「去年満水に付テ米・大豆高値たるの間」となっている。これは寛文二年(一六六二)に取りやめとなり、万治二年までの御定賃銭に戻されている。
 寛文六年(一六六六)の改定の理由は、「近年 米大豆高直(値)なるゆへ 宿々ニて困窮之間」
 延宝三年(一六七五)の二割増の時も「米下直ニなり銭之直段上り候迠ハ如此」
 延宝九年(一六八一)の二割増の理由は 「道中就困窮」
 天和二年(一六八二)の高札(一)の方も 「米 大豆高直たるゆへ」
 元禄三年・宝永四年(一六九〇・一七〇七)は 「近年道中宿々令困窮ニ付」となっている。
 多くの場合その理由は、米等の高値によることが一因であることは理解できる。ただ宿々困窮については、物価等も含まれるが、その他の理由があったかどうか、今一つはっきりしない。
 正徳元年(一七一一)の駅法改革の際、各宿駅間の駄賃と人足賃銭が、各宿の新しい高札に示され、それは宝永四年のものと同額であった。これが今後は元賃銭とよばれて、その後は明治維新まで、長く人馬賃銭の基準となった。その後の賃銭は、この元賃銭に対して何割増とか何割何分増という表現がなされたのである。中津川宿の正徳の駄賃銭高札は、次のようであった。
 
        定
 一 中津川ゟ駄賃幷人足賃銭
   落合迠
     荷物 壱駄   五拾五文
     乗掛荷人共ニ  同  断
     軽尻馬 壱疋  三拾六文
           附
        阿ふつけハから尻に同じ それゟ重き荷物ハ
        本駄賃銭に同しかるべし 夜通し急ニ通る輩
        ハ軽尻に乗とも 本駄賃銭と同前たるへし
     人足 壱人   弐拾八文
   大井宿迠
     荷物 壱駄    百拾壱文
     乗掛荷人共ニ   同  断
     軽尻馬 壱疋   六拾八文
     人足 壱人    五拾三文
   泊々にて木賃銭
     主人 壱人    三拾五文
     召仕 壱人    拾 七文
     馬  壱疋    三拾五文
   右之通可取之 若於相背に可為曲事者也
    正徳元年五月     奉行
   右之通従公儀被仰出之 訖弥堅可相守之者也
                       竹腰山城守
                       成瀬隼人正
 
 この正徳元年の元賃銭は、安永初年まで変化なく持続して、安永三年(一七七四)に最初の割増が行なわれた。その理由は、近年道中宿々が困窮し、殊に明和七・八年の旱魃、安永元年の風損、流行病によって難儀しているからとして、東海道は三割増、中山道は二割増の人馬賃銭が、七年に限って認められたといわれる(丸山雍成・近世宿駅の基礎的研究)。しかし、中津川宿については、現在までのところ、その記録を見ることはできない。この駄賃銭は、天明元年(一七八一)一一月に元賃銭に戻った。寛政一一年(一七九九)正月から一〇か年を限って一割四分増となって以降は、明治維新まで、元賃銭の期間はなかったようである。文化一三年(一八一六)一二月には、一割五分増の上に三割増となり、都合四割五分増となった。
 天保八年(一八三七)三月には、五月迄の三か月間を限って、前年の凶作で、米穀を初めとする物価高騰によって、「人馬役之者及難義候」を理由にさらに二割増を追加したので、都合六割五分増となった。しかし五月末になっても「いまだ米穀高直ニ付」という理由で、二割増追加が三か月間延長された。
 ところが、同年東美濃九か宿では、八月に「風損ニて宿々倒家等も多出来 難渋」を理由に 二割増追加の九か月間延長方、道中奉行への出願を尾張徳川家に再三嘆願したが、二割増追加の延長は認められなかった。しかし従来の四割五分増の上に五分増を追加して、都合五割増が翌天保九年正月から天保一三年一二月まで、五か年間許可された。これなどは、人馬賃銭割増の地域的特例というものであろう(市岡家文書)。
 文久二年(一八六二)には、物価高騰による、宿々の困窮がひどく、従前の四割五分増に三割増を追加して、七割五分増となった。文久三年には、元賃銭の約二倍となり、慶応四年(一八六八)には、未曽有の物価高騰の中で、七・七~八倍という暴騰ぶりを示している。