尾張徳川家関係の継立

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中津川・落合両宿を含めた、東美濃九か宿が、尾張徳川家の領地であったこと。良材を産出する木曽がまた尾張領であったことと関係して、尾張徳川家の役人・御用物等の通行量は無視できないものがあった。前述した(伝馬等の嘆願と申し合せ参照)元禄三年の中津川宿より郡奉行への嘆願及び東美濃七か宿の嘆願書によると、
 一 木曽上松材木役所 二 大井の陸上木曽材番所 三 木曽路川並御用 四 高須松平家の信州竹佐村陣屋等への役人や文書・荷物の伝馬・人足による継立、五 木曽山産出の木具柾などの伝馬による継立などが記されている。
 寛永一〇年(一六三三)四月には、尾張徳川家の役所の荷物を、上松から大井まで、伝馬継立をしている。
 
  寛永十酉 尾州へ御伝馬次第
  一 畳 表        三個
  一 へり包        壱個
  一 へりとり     二拾八枚
  一 腰しゃうし      五本
  右之通 御馬三疋ニ付越申候間 夜中ニよらず急尾州へ相届可被成候 なこやにてハ御奉行衆ハ
    江坂清左衛門殿
    本多猪右衛門殿
  候由 御両人方へ慥ニ御届 則返事可参候間此方へ慥ニ相届可被成候以上
   卯刻酉四月十四日               上松
    須原  野尻 三留野 つまこ
    まこめ 落合 中津川 大井
  是ハ大井御問屋衆へ申上候 御伝馬毎度尾州ゟ参候ことく宿々御次立御届可被成候(名古屋市図書館蔵・尾張藩交通史料(写))
 
 尾張徳川家の家臣の役務による通行や運送にも、このように証文による伝馬・人足の使用が行われていたようである。また、尾張徳川家の役所で使用されていた「地方古義」によると、享保七年(一七二二)の定では次のようにとり決めている。
 尾張・美濃郡奉行、山野方奉行などが役務で地方へ出張する時は、証文によって伝馬を使用することができ、無賃であったが、近年(享保)はみだりに支配所から人馬を、呼び寄せるようになった。従って享保七年(一七二二)からは、従来のきまり以外の人馬を使用する時は、雇って使用することになるから、賃銭を支払い、請取手形を取って置かなければならないこと。奉行所の手代たちも、人足証文をもらって、人足一人を使うことができ、又急用で遠方へ出張する時は、所属の長である奉行に申し出て、指図の上で伝馬を使用でき無賃であった。しかし手代が老身 病身で歩行困難な場合は、駄賃を支払うことになっていた。すなわち、尾張領内の宿駅から見ると、尾張徳川家の奉行や手代の証文伝馬や人足は、無賃で提供しなければならなかったのである。
 幕末にいたっても、役人の証文人馬を継立てることは当然であったが、人馬の継立てが特別に大量必要なときは、助郷村の人馬を寄せて継立を行い、この時は御定賃銭を宿駅の負担で支払っている(市岡家文書)。
 また尾張徳川家領主の通行ともなると、前もって道筋検分に、道中役人・普請奉行が、本陣検分には作事奉行が巡回し、また先触や宿割の役人も来る。通行当日には、国・郡奉行やその手代が警備・表敬挨拶・接待などにやってくる。これらの諸々の尾張徳川家関係の役人や、その文物の継立て人馬を提供する必要があった。
 木具柾等の木曽産出の材木を陸送する伝馬の実態については、万延元年(一八六〇)一一月、東美濃七か宿の問屋が、木曽材木役所に提出した願書で、うかがい知ることができる。願書によると、いつからか御役所御用の桧皮、綿織方で使用する白口藤・簀木等を一日に五駄から一〇駄ずつ、御定賃銭で継立して来たとのことである。ところが万延元年(一八六〇)には、川上山[恵那郡川上村]から産出する、三五片板、曲輪、曲底、釘木、桶木取類の小白木を、落合宿から兼山村まで、伝馬による陸送の命令を受けた。これは御定賃銭による継立であり、しかも一日に四・五〇駄という多量の荷数になることもあり、大変な負担増となった。そこで落合宿から山元へ、一日に五駄ずつの継立に願い出たが許されず、中山道の継立の間を縫って宿立馬で継立るのではとても間に合わず困っている、と訴えている。このように見てくると、木曽の材木の伝馬による継立が、木品やその数量の変化を伴いながらも、幕末まで続いていたと考えられる。
 これら尾張徳川家関係の役人や文書・木材のための人馬の継立が全体として、どれ位であったのか、数量的に明らかにできないが、苗木領助郷八か村が、参勤交代以外の尾張役人の人馬継立を拒否している事等から、相当量あったと推察される。同時にその負担が助郷村にとって軽いものではなかったことを示すものであろう。その史料から引用すると、
 
      宿方え御尋申 御返答承り申度事
      (前五項略)
   一 尾州御家中様幷錦織方 木曽方共 江戸御交代之外 人馬出勤之義ハ御断申上候御事 (後略)
     (元治元年)甲子 三月            苗木領
                            八ヶ村役人中
      中津川・落合両宿
         御問屋衆中          (市岡家文書)
 
 広義には尾張徳川家の家臣の通行の中に入るが、尾張徳川家の給人で、中津川村には地頭である山村甚兵衛(木曽代官・福島の関守)家関係の継立も無視出来ぬものがあったと思われる。山村氏とその家族の公的・私的な名古屋への出府は、中山道から下街道を通ることを許可されていたが(愛知県史・名古屋市史)、尾張領内では無賃または御定賃銭の継立であったと考えられる。また、中津川代官所の御用で通行する御証文通行は、御定賃銭であったようであるから、その代官や手代の通行も無賃または御定賃銭であったと思われる。