地震見分江戸目付衆の通行

1246 ~ 1248 / 1729ページ
宝永四年(一七〇七)一一月一一日中津川宿泊で、幕府の目付衆が中山道を下向した。宝永四年一〇月四日は美濃大地震が起きた日で、同国内で全・半壊八〇〇余戸の被害があった。用件は恐らくその視察であったものと思われる。上りは不詳だが、下りは中山道を通行した。その折に中津川宿では、次のような書上を提出した。
 
       美濃国恵那郡中津川宿   尾張御領分
 一 町筋  拾丁七間
     此家数 百七拾五軒  内 弐拾五軒  馬役人
                  五拾軒   歩行役人
                  百 軒   無役之者
  右は当十月四日地震ニ付 潰家 大破 小破 人馬損 怪我人無御座候 以上  (以下略)          (市岡家文書)
 
 中津川宿では、地震による被害はなかったもようである。
 この通行の様子は、次のようであった。目付衆の構成は、安部式部一行が三四人、坪内角左衛門一行は三七人、二人の御徒目付と四人の御小人目付の一行は、全員で一四名であった。
 まず、先触として泊の覚が到着した。これによると一一月八日泊加納、新加納(九日)、伏見(一〇日)、中津川(一一日)、須原(一二日)、奈良井(一三日)、諏訪(一四日)、八幡(一五日)とあった。人馬の継立は、Ⅵ-85表のとおり、朱印人足が両者合わせて一六人、御朱印伝馬が三者で二〇匹であった。ところが実際に継立した人足は、一八二人で、朱印人足との差の一六六人は、御馳走人足であると記録されている。賃人足の継立がなかったことになる。記録に誤りがなければ継立の九五%が御馳走人足である。馬の方は継立馬の合計二一匹のうち御馳走馬は一匹であった。しかし御朱印人馬と御馳走人馬はすべて無賃で、賃銭の収入は無いので、この負担は、両宿と助郷村一三か村にかかった。

Ⅵ-85 江戸目付衆通行時の継立人馬数(宝永四年、中津川・落合宿)

 裃を着て脇差をさした宿役人が、安部・坪内両者の乗物の両脇についてお供をし、歩行目付二人と小入目付四人にも一名ずつお供をした。また安部・坪内両氏には「杖突」が二名ずつ付いたという。これらのお供の宿役人や杖突も、宿駅の負担になるものであった。