江戸巡見使の通行

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宝永七年(一八五四)には、幕府の巡見使、梶四郎兵衛他二名が、五月二六日岩村泊り、二七日中津川宿泊りで、二八日には加子母村へと通行して行った。御朱印状写によると駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・甲斐・信濃・飛驒・美濃一〇か国の巡見のために派遣されている。朱印状は三月一六日付で発行され、三月一九日江戸発駕となっている。中津川宿では巡見使の家老からの触状・江戸伝馬町の問屋馬込勘解由の添状が届くと、このことを通行先の苗木領へ届けると共に、尾張領の郡奉行代へも報告している。
 巡見使三人の朱印人馬と継立人馬数はⅥ-86表の如くであった。朱印状では人足が八人ずつの二四人、馬が三人の計で三五匹であった。しかし朱印直しが行われて、人足が四〇人・馬二七匹と変更になった。これに対し実際に継立てた人足数は、合計で人足が一八〇人、馬(本馬・添馬・軽尻)が四四匹となっている。その差、人足で一四〇人、馬で一七匹から添馬九匹を引いた八匹は、それぞれ駄賃人馬か、御馳走人馬なのか記録されていないので、明らかでない。駄賃人馬の記録がないということは、御馳走人馬である可能性も大きい。参考までに、尾張徳川家の大代官と郡奉行の三人が、加子母村までの案内に要した人馬賃銭は、尾張より支給されたと記録されている。

Ⅵ-86 御朱印人馬数と継立人馬数
(宝永七年-一七一〇-幕府巡見使通行の場合)

 これら継立のために、駒場方上地に継所が設けられ小屋がけが行われた。その費用は、駒場村と中津川宿で出したと記録されている。そして宿と助郷の人足と馬は、そこから木曽川を船で渡って、苗木側の上地村、日比野村、福岡村を通って、加子母村まで継立てられた。加子母村まで行った人馬は、Ⅵ-87表の如くであると記録されており、この中には、尾張徳川家の大代官、郡奉行ら三人の案内役人が使用した人足四三人、馬七匹が含まれている。しかしそれを差引いた人足一三五人、馬四四匹は、加子母村まで、巡見使一行とその荷物を運ばなければならなかった。そしてそれらの人馬は、中津川宿の助郷村のうち川南[木曽川南]の四か村と正家村から徴収されたことは、表の通りである。川北[木曽川北]の助郷村は、川北において別途、人馬の継立に徴発されて、川南の人馬の不足を補ったのではないかと思われる。

Ⅵ-87 加子母村(飛驒境)まで継立した寄村別人馬
(宝永七年幕府巡見使通行の場合)