宝永七年(一七一〇)四月、京都所司代の松平紀伊守(丹波篠山 五万石)が大井宿・須原宿泊で、中山道を江戸へ下向した。中津川宿は小休であったと推測される。京都所司代の通行は、道中奉行の書上(享保八年(一七二三))では、御定賃銭による継立になっているが、京馬借の能若仁左衛門からの先触によると、証文人足が「御用之御箱弐棹、人足八人」となっていて、この分が無賃の継立であった。そして「駄賃伝馬三拾五・六疋、同人足三・四拾人」となっている。
継立に要した人足が三〇一名、本馬が九八匹であったという記録がある。従って証文人足八人、駄賃人足三・四〇人を差引いた人足二六〇~二七〇人は、前項・前々項のように、御馳走人足であろうか、相対賃銭による雇人足という記録はない。同様に駄賃伝馬二五・六匹を差引いた本馬六二・三匹も御馳走馬であったのであろうか。
継立に要した宿駕籠は、三〇挺であった。そこで、木曽から一〇挺を取りよせ、中津川宿の宿駕籠も一緒に、木曽へ通し駕籠をした。それでも不足で大井宿と大湫宿の宿駕籠を借りて、木曽まで通したという。