宝永八年(一七一一)四月二〇日、尾張の第四代徳川吉通帰国のための通行があった。中津川・落合両宿にとっては、領主の通行であった。四月一九日野尻宿泊、二〇日三留野宿小休、妻籠宿昼休、落合宿小休、大井宿泊りの日程で、中津川宿は通過であった。
通行当日は天気も良く、中津川宿から四・五人が、裃を着用の上、問屋・年寄として村境の三五沢まで迎えに出た。宿内の会所に勤める者は、全員が裃・袴羽織を着用していた。
尾張からは郡奉行の横井作之右衛門・益田安兵衛が落合宿の人馬継所へ、中津川宿へは郡奉行手代の上原只右衛門・中川又兵衛が派遣されて来た。福島の山村家から使者として、落合宿へ堀尾源五右衛門、大井宿の宿所へ堀尾作左衛門、大湫宿の休所へ向井浅右衛門が派遣された。
落合宿に人馬の継所が設けられ、中津川宿から問屋役の四郎右衛門、年寄役の与一右衛門と孫兵衛その他四・五人が肝煎に行ったこと、この継立に要した人馬数の委細は落合宿にある、と記録されていることなどから、中津川宿と、落合宿が両者の人足や伝馬と、助郷村の寄人馬を落合宿に集めて、落合宿から大井宿まで運送するという、中津川・落合両者の合宿継立であったと考えられる。
この継立に先立って、中津川・落合の両宿に寄せ集めることのできる助郷人馬の数はどれ程か、と尾張より問合わせがあった。両宿からは、本馬一五〇匹・人足三〇〇人までは継立可能と報告した。すると尾張からの繰込み(はいり込む)人足一〇〇人、馬一五〇匹を連れてきた。両宿と尾張人馬を合せて、人足四〇〇人・馬三〇〇匹による継立ということになる。しかしそれでも、人足が不足であると、落合宿から言って来たので、中津川宿で人別狩りをして、人足一四〇~五〇人を落合へ送った。ところが半分残って帰ってきたということであった。更に、中津川宿の駕籠を一五挺送ったという。しかし駕籠人足は最低三〇人は必要であるから、あとから落合宿へ送った人足は一〇〇人ほどになる。従って以上を合計すると、人足五〇〇人程、馬三〇〇匹の継立をしたことになる。
ところが、これだけではすまなかった。次の二点の負担の追加があった。一つは尾張徳川家の郡奉行手代衆の命令で、中津川宿人足三〇人を、大井宿へ派遣しなければならなかった。二点目は、木曽の宿々では、今度の通行のために、宿々が寄り合って、人馬をやっと用意して継立てた状態であった。従って同日西から下向する通行者に対しては、人馬の継立を断った。しかし小笠原駿河守が、大坂御番を請けるために、江戸へ下向することになって、三〇匹の馬を継立ねばならなかった。そこで、落合・中津川両宿で各々一五匹ずつ出すことにした。中津川宿では、町馬三〇匹の中から抽選で決めて、一五匹を継立てたという。この三〇匹の馬は、中津川宿から須原宿まで通して輸送をするという通し継立であった。
大坂御番の継立人馬は定められた数までは、御定賃銭であったと推察され、賃銭も支払われたと考えられる。しかし領主である尾張徳川家のこの年の継立賃銭については、何も記録がない。
尾張徳川家の通行では、尾張の人馬を中津川宿・落合宿まで繰り入れて継立てていること。すなわち、尾張よりの繰込み人馬に特色があった。尾張表の通行ともなると大通行であったから、こうした繰込み人馬は、度々あったのではないかと思われる。
文久三年(一八六三)五月、尾張大納言が中山道を上京する時、野尻宿からの報告に「人足四千人 備 二千七百人 助郷三十三ヶ村 弐千三百人 御国表ゟ繰込」(市岡家文書)。となっている。四、〇〇〇人の人足のうち二、三〇〇人が尾張より繰込まれた人足で、野尻から落合まで通し人足であったというから、落合宿からも、この尾張人足が使われたものと推定される。
元治元年(一八六四)三月の東美濃九か宿から、太田代官への嘆願書によると、木曽路は万事不都合がちのところであると述べたあと「大通行有之節 御国許ゟ米穀諸色 且人馬等迄も御操込無之候てハ御間合不申」(市岡家文書)と述べ、大通行の時には、尾張表より米やその他の物資のみならず、人馬さえも移入しなければ継立ができないと言っている。