前項までに見て来た、幕府役人等の御用通行、大名通行に伴う、人馬の継立のほかに、「江戸・京・大坂ゟ御證文附ニて継送り候御状箱 御用物等 宿内御定人足之内ニて御状箱持当置 問屋・年寄一同取扱来…」(中山道宿村大概帳)というように、御証文付の御状箱、御用物の継立が、宿駅の重要な任務の一つであった。これらの御状箱・御用物の継立の折には、問屋役・年寄役が宿駅の問屋場で継立に従事しなければならなかった。享和元年(一八〇一)の中津川宿の「御分間御用書上帳」でも、次のように述べている。
一 江戸・京・大坂其外御證文附御状箱 御用物継送り之義ハ 上下共人足四人宛ニて相勤申候 尤御状箱到来之節ハ 問屋年寄共問屋場ニて御継立仕候
<御本丸御用物> 寛政六年(一七九四)一〇月、京都所司代、堀田相模守の証文つきの御本丸御用物を、茶屋小四郎の宰領である近藤久右衛門が、大湫宿から大井宿まで持参した。昼夜の別なしの継立てものであったので、急いで継立てられ、先触と御用物・御証文と宰領が、同時に大井宿に到着した。取急いでの継立で、特に先触は急継立であったので、御証文の写を一通会所で落して継ぎ立ててしまい、御用物を継ぎ送った後、証文の写を見だした。そこで即刻、それを飛七里役に持たせて、中津川宿へ急がせたとのことである。宰領が中津川宿に到着して、先触と御証文が届いているかどうか尋ねた時、中津川宿の会所で働いている帳付役は、先触ばかりで証文が届いていないと答えた。そこで、その旨大井宿へ飛七里役を派遣したが、それが途中で行きちがいになり、証文写がひとときあまり遅れて到着した。また即刻、証文写を飛七里役に持たせて落合宿へ急がせた。中津川・落合両宿で受取った時は、証文が一時遅延したが、格別の延引ではないと思われた。ところが、宰領の江戸到着が三・四日延引になり、証文も遅延になったということで、大井・中津川両宿の問屋・年寄が道中奉行より江戸へ呼びつけられることになったという記録が残っている(市岡家文書)。
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