長良川の鵜飼漁による鮎は、岐阜町の鮎問屋の河崎喜右衛門・藤井和兵衛によって、鮎鮨に加工され、尾張表から将軍家への恒例献上品として出荷された。鮎鮨は岐阜町より笠松を経て、東海道筋を昼夜の別なく刻限をきって江戸へ継送されたといわれている。そしてその逓送は公儀老中証文をもって扱われたとのことである。
しかし、嘉永六年(一八五三)には三度、中山道を継送されたと考えられる史料がある。
乍恐御請奉申上候御事
一(丑六月九日根出し下り方え) 鮎御鮓 弐駄
一(同十四日根出し下り方え) 同 断 弐駄
一(七月二日根出し下り方え) 同 断 弐駄
〆 (記載なし)
但落合宿え本馬壱疋 八拾文
右ハ去丑年 岐阜根出し御鮓駄数幷賃銭請取訳委敷取調 御達申上候様被仰付 奉畏候 昨年之ハ三ヶ度ニ前顕之通御継立仕候 是迠 賃銭一切頂戴不仕候義ニ御座候 依之此段御請奉申上候 以上
嘉永七年寅八月 中津川宿 問屋
森 孫右衛門
須加井重五郎様 御陣屋 (市岡家文書)
これによると、嘉永六年は、六月九日・一四日・七月二日に岐阜根出しで、二駄ずつ継ぎ送っている。落合宿へ本馬一匹、八〇文とあるから、御定賃銭による継立と見受けられる。それまでは無賃であったようである。
そうすると嘉永六年のみでなく、以前にも中山道を継送することがあったものと考えられる。