年間の継立人馬数

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<継立人馬数> 継立人馬数については十分な史料はない。元禄一五(一七〇二)・宝永六(一七〇九)・天保一一(一八四〇)・弘化元年(一八四四)から五年間によって見ると、Ⅵ-88表のようである。年間の継立人足数が最も少ないのは、元禄一五年(一七〇二)の三七五七人、多いのは天保一一年(一八四〇)の一〇八四八人となっていて、平均では七五三六人である。元禄・宝永期の一八世紀初めと、天保・弘化・嘉永の一八四〇年代とをくらべると、継立人足数は後者の方が多くなっている。ペリ来航以降は通行量が増大するから、更に多くなっているものと思われる。

Ⅵ-88 年間の継立人足・馬数の推移 (中津川宿)  ( )内は百分率

 継立馬数の方は、最少の年が弘化四年(一八四七)で六八九七匹、最多の年が宝永六年(一七〇九)で一〇六一二匹となっていて、平均八〇七四匹である。人足数と異なって、一八世紀初めの方が多くなっている。
 なお、表中大坂御番衆の上り下りのあった天保一一年以外は、さして大通行がなかった年であるから、江戸中期以降の平均的な継立人馬数の年ではないかと考えられる。
<賃人馬と無賃人馬> 年間の賃人馬と無賃人馬についての資料も、極めて少なく、Ⅵ-89表に示すように、宝永六年(一七〇九)と天保一一年(一八四〇)の二か年分について見ることにする。両年とも無賃人馬の数が少なすぎ、宝永六年は特にその感が強い。これはどういう理由によるものであろうか。諸記録にみるかぎりにおいては、無賃人馬の継立の多かったことを認めざるを得なかった。

Ⅵ-89 年間継立人馬の中の賃払・無賃の割合 (中津川宿)  ( )内は百分率

 元治元年(一八六四)三月、道中奉行が東美濃九か宿に認めた人馬賃銭有来割増の上に五割増一年延長理由の中に「…近年御用旅行之向通行相増 無賃人馬継立多…」(市岡家文書)とある。また文久元年(一八六一)の東美濃九か宿の問屋・年寄内名による九か宿組合取締役宛の文書の中に、「近来御用御通行様方御家来衆 御権威相募 無賃人馬多く被仰付 (中略)御家来小者之面々 多分之無賃宿駕籠幷御先払・見送り・才領等 宿々不伺候へ共 莫大ニ被仰付」(市岡家文書)とある。これらにより無賃の人馬継立が多く、時には無賃の宿駕籠・人足等を多数出さねばならなったことがうかがわれる。特に幕末期にこの傾向が大きくあらわれたものであろうか。
<宿人馬と助郷人馬> 通常人馬の継立は宿人馬で行い、不足の場合は、助郷村から人馬を集め継立てた。年間の継立人足数の中で助郷人足の占める割合をみると、少ないのが、元禄一五年の一七七人の四・七%、多いのが天保一一年の五〇・四%で五四六二人となっている。幕末に近づくにつれて助郷人足の割合が多くなっている。
 年間の継立馬数について見ると、助郷馬の割合の一番少ないのが、元禄一五年の二・九%で二八〇匹、一番割合の多いのが天保一一年の一五・六%で一一二六匹となっている。従って年間の継立馬数は人足数にくらべて、宿馬の占める割合が八〇~九〇%代と多く、助郷馬の占める割合が少ないことがわかる。すなわち一年間の継立人馬のうち、人足の方は助郷人足の割合が増加して、少なくとも天保期以降は、人足の三〇%前後から五〇%前後は助郷の人足がつとめ、馬の方は三%前後から一〇%前後を助郷馬がつとめ、宿場のつとめる割合が多かったといえる。しかし嘉永六年(一八五三)以後、特に文久三年(一八六一)以降は、中山道の通行量が増大し、宿人馬・助郷人馬ともに出勤が多く、負担が重くなっていくのである。[この項傍点筆者]