実地に就いて調査に来ると、まず建物の下検分をし、破損箇所があれば修繕をさせた。裕福な大名の中にはその修理の費用を与える大名もあった。特に姫宮等の特別な旅行等になると、そのために新調したり、修復したりしなければならなかった。また休泊だけの場合だけでなく、建坪約三〇〇坪に及ぶ本陣を維持管理していくには多額の経費を要したのは当然の事でもあった。
Ⅵ-92 中津川宿-脇本陣間取図
まず維持管理のため多くの拝借金を受けていることが、市岡家文書によってわかる。安永七年(一七七八)と天明元年(一七八一)には、家居大破修復という理由で尾張国奉行へ拝借願を出し、二度にわたって四〇両、三〇両と計七〇両拝借している。また寛政五年(一七九三)五月には、居宅・御殿向大破、日用の諸道具にも事を欠くという理由で、五〇両の拝借願を中津川代官に出し、山村家中津川代官より同年一二月五〇両の貸与を受けている。さらに天保二年(一八三一)正月には
乍恐奉願上候御事
私儀代々御厚恩之以御蔭を御役儀相勤来候処 追々困窮弥増……只今至候てハ一向渡世も難相成仕合ニ御座候 当年ニ至候てハ御年貢相立候手立も無之 殊ニ当年ニ至候てハ 居宅ハ不及申 御殿向共大破ニおよび 諸大名様方御休泊御宿も相勤不申仕合相成候
御救と被思召 御救金弐百両無利五拾年賦返上仕候様 御拝借被為仰付被下置候様奉願上候
の願上書を本陣市岡長右衛門より太田代官所へ願い出ている。文面から想像する限りでは、本陣の疲弊と建物の維持管理に腐心していることがよくわかる。
また大通行に伴う修復についてみることにする。元禄一五年(一七〇二)三月二七日 尾張姫君下向の際、中津川本陣で昼休ということになり本陣の普譜が行われることになった。二月二一日に役人と大工頭二名が入り込み、二二日より普請にとりかかった。手伝いとして大工二四~五人、木挽四~五人、人足一四~五人が村の役勤めとして出て、二六日には完成した。これに要した諸費用は、雪隠をたてたのでその費用九両二分、村入用二両五九三文、その他作事方への振舞・伝馬奉行宿入用等でその支払いを受けている。
また元禄一六年(一七〇三)若年寄稲垣対馬守他三名が上使として上方へ行き、帰りは中山道で中津川へは勘定頭萩原近江守・目付石尾織部らが泊った。その折に普請した家数は四軒で、
「……畳新キ所ハ其儘 古所ハ上壱間表がヘ 上ケ畳ハ御屋敷 落合ゟ借申筈 御湯殿道具四軒共ニ左之通り新規ニいたし候其内ミかけ候而能候ヘバ其まま 一御行水たらい 一御なり湯桶 一御手水鉢 一御水溜樋弐つ 一水こし壱 一ひさく弐本……」
とあり、その他普請した四軒の入用額は合せて二四貫九一一文、金にして三両一分六一一文となり、また他にも入用金はあった。
さらにその普請内容をみてみる。宝永八年(一七一一)四月尾張殿様が上国された。その日程は一九日野尻宿泊、二〇日妻籠宿休、大井宿泊で落合宿が小休であった。しかしこのような、日程が判ったのは遅く、関札も四五日前に届いた位であった。一方日程がわかる前に若し休泊或いは小休があるかも知れないと中津川本陣へは役人が来て検分し、畳の表かえ、雪隠・湯殿の修繕等を申しつけた。その時の覚書をみるとⅥ-93表のようである。畳がえ・葺板・特に湯殿・雪隠の修繕は程度の差はあれ、ほとんどの普請の対象となっていることがわかる。
Ⅵ-93 尾張殿様通行の際 中津川本陣普請内訳(宝永八年)
また宝永七年(一七一〇)巡見使の通行については、宿三軒が必要であったので、尾張より破損普請のことを書き上げるようにとの事で書上書に付札で色々指示があった。
御巡見様中津川御宿破損之覚 長右衛門家
一 上段畳拾畳 但シ備後表 (朱書)畳表此方ゟ可遣候
一 御雪隠畳表弐校 (朱字)同
一 御目通高壁拾壱間 但上葺 (朱字)其宿にて可拵重テ勘定可相立候
(以下略) (朱字)=付紙之趣ハ朱墨にて記申候
このように品物によっては直接尾張領より現物が支給され、その他は宿で普請工事を行いあとから代金の支払いという形をとった。この折三軒で要した費用は金にして一二両で、尾張表より受取っている。
また諸大名の通行にあたっては嘉永元年(一八四八)三月二六日加賀宰相の通行にあたっては、市岡家文書で見る限りでは、本陣の一部修理・畳替・襖張などに 相当の補助があったことがうかがえる。また通行者から本陣へは祝儀として金銭が与えられ、これらは修復費などにあてられた。