休泊施設

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休泊の施設としては、休息のためには茶屋があり、宿泊には旅籠屋(はたごや)があった。特に大名などが休泊に利用したのは本陣であったことは前述したとおりである。今中津川宿・落合宿を中心にし、周辺の宿場の休泊施設情況を見ると Ⅵ-94表のようである。

Ⅵ-94  中津川・落合宿周辺の休泊施設情況

 旅籠屋の大中小の規模については、どういう基準かはっきりしないが、総家数に対する旅籠屋の比率では大湫宿の四五%が最も多く、次いで妻籠宿・大井宿・細久手宿で中津川・落合両宿の比率は低く、中津川宿は一三%と最低である。このことは宿としての機能がその集落全体の中で果す役割を示すもので、大湫宿では半数近くが宿駅業務に関係があり、中津川宿では他の産業も発達しており、多くの人が集まり、旅籠屋数の比がさがっていると考えられる。したがって明治維新後、宿駅制度が廃止されたとき木曽の住民は打撃をうけその生計の途を失ったことは藤村の「夜明け前」に書かれているような情況であった。
 旅籠屋数でみると、大井宿の四一は最多数で、次ぐ三〇軒前後が中津川宿・妻籠宿・大湫宿となる。したがって全家数に占める比率は低いが旅籠数そのものは少ないということではない。なお中津川宿は大の旅籠屋は八軒で、近辺では最高である。収容人員等も考慮しないと旅籠屋数だけで宿としての機能についての速断はできない。
 旅籠屋は旅人を宿泊させるのが業務である。年中旅行者が一定していれば専業としてなりたつが、後述するように多い時期は主として四月から九月にかけて、冬期一一月から二月にかけては少なくなったので、旅宿業だけで生活するのは困難で農商を兼ねることが多かった。
 茶屋についてはそれぞれ設けられていたであろうが、記録に残るものは少なく詳しく知ることは出来ない。「美濃御坂越記」(明和二年=一七六五=)には、「坂本茶屋二軒あり」とある。さらに「中山道宿村大概帳」には「同村(茄子川)地内に大小名小休所有之」とある(第七節 茄子川村小休所参照)。