比宮(なみのみや)(父伏見宮邦永親王)が徳川家重(九代)のもとに輿入されるため、享保一六年(一七三一)四月中山道を通られた。行程としては、四月二六日細久手宿お昼・同晩大井宿で止宿、二七日落合宿お昼・妻籠宿止宿の予定であった。道のりが遠かったので予定を変更し、細久手宿で止宿、二七日大井宿でお休みになり俄に中津川宿で止宿ということになった。急の変更であったので、二六日暮合に作事奉行市川平七郎が本陣にきて普請を申しつけるということであった。勿論中津川宿本陣では小休ということであったので畳表等はかえてあったが、急なお泊りでも湯殿敷板張かえ、雪隠等、作業は夜中に行われた。なお諸道具等は大井宿へ貸してあったので、一部返却してもらい、また買ったりして大変苦労をしてその任を果した。こんな大通行でもこうした急な変更が突然起こり、本陣が焦慮した様子がうかがわれる。