Ⅵ-96 中津川宿本陣の休泊者表
表でわかるように、休泊件数の一番多い階層は、すなわち上階層級でも主たる旅行者は、大名通行とそれに伴う家臣たちで、その休泊が本陣の全宿泊件数の大半を占めている。次いで幕府の公用での休泊件数が多い。このことは中山道の果した役割とのかかわりと考えられる。
休泊の内容、時期については、本陣での休泊状況を文政八年(一八二五)より一〇年間(「御休泊留記」の最初の記録部分)でみる限りでは、天保五年(一八三四)を除くと大体二一件から二九件の範囲内である。そして休泊内容からみると、宿泊・昼休・小休のうち、宿泊が圧倒的に多く一〇年間の平均では六八・六%と約七割を占めている。そして昼休小休は合わせて三割、昼休がやや多いがいずれも同じ程度の割合になっている。
なお幕末に近い安政元年(一八五四)から一〇か年をみると、文久元年(一八六一)和宮の降嫁など特別の年もあったが、宿泊件数は前者(一八二五~一八三四)とくらべると全宿泊の約五五%と減少し、昼休・小休が全休泊の半数を占め、昼休は全体の四分の一と比率が高くなってきている。こうした変化の背景にはめまぐるしく移り変る社会や、諸大名の財政が厳しくなったことを反映したものと推測される。
また休泊の時期についてみると、三、四、五、六月で全体の六割から八割近くになる。中でも五月が一番多い。このことは農業を兼業している者にとっては大変であったことが想像される。その他の月は比較的少く、一一、一二、一月は一番暇なときである。休泊者の少ないことは収入源がないことで、本陣・旅籠にとっては旅宿業だけで生活するのは困難であり、生活に苦しんだり、兼業をしていたことがわかる。「濃州徇行記」(寛政(一七八九~一八〇〇)中編修)によると当時の落合宿については、「……小駅にして貧戸多し 宿内家七十戸ほどあり 左右に旅籠屋多く建ならび 近来家悉く破壊して見ぐるしき宿場也 商家もなく別して匱乏にをよべり……」とある。また中津川宿については、「……定旅籠「陽屋」は三拾戸ほどあり これも農商を兼屋づくりよし……」とあり、落合宿の疲弊に反し、中津川宿は農業や商業を兼ねた旅籠が多く比較的暮しのよかったことがうかがわれる。
Ⅵ-97 中津川宿本陣の月別休泊表(その一)
Ⅵ-97 中津川宿本陣の月別休泊表(その二)