差合

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通行頻繁の月には、大名同志が或いは公家と大名等が一宿で落ちあうことがしばしばあった。そうした折には宿取り・宿割りなどの関係もあって争いなどを生じやすいので、できるだけ避けて旅行行程を計画するのが通例であった。しかし実際に同一宿に公家や大名がでくわす場合には同格の者であれば先約が当然優先したであろうが、格式が違うと大変むつかしいことになった。格式でいくと、勅使・例幣使が最優先され次いで高家の順であったようである。
 中津川宿で起こった差合(合宿)はいくつかあったが、記録に残る二・三の例を紹介する。
その一つは、享保二年(一七一七)四月五日に例幣使と巡見使が中津川宿で合宿となった折の経緯をみる。巡見使三名(松浦酒之丞・山岡五郎作・渡辺左門)が兼山から苗木領へ入り三日中野方村[恵那市]泊りで、四日久須見、大井宿を経て岩村泊り、五日に中津川宿泊のコースの予定であった。しかし四月五日は、中津川宿は例年例幣使の宿と決まっていた。当年はまだその触が本陣まで届いていなかったので尾張へ尋ねたが「何とも指示出来ない」ということであった。早速京都へは年寄役佐左衛門が、巡見使へは長右衛門が出向いた。「これからは京都の動向がわかってから」と見合せていたところ、佐左衛門から京都の様子が届いた。それは「将軍代理の巡見使であっても、勅使の宿を押えることはもってのほか伺いに来るとは不届千万である、早々に立帰れ」という殊の外強いお叱りで「埒(らち)があかん」という知らせであった。巡見案内のため尾張より役人も来ており、この間の事情を知って同情され「巡見使へはお断りするよう」との意見であった。そこで長右衛門は中野方村に赴き巡見使がお泊りの前の庄屋へも頼んでおいた。中野方村にお泊りの折、早速長右衛門に出頭するよう話があり出向いた。その折、差合の趣申上げ「先触はまだであるが例年勅使の宿であるので本陣は勅使の宿とし、巡見使には脇本陣と二番三番の宿まで尾張徳川家より手当をもらう所で見劣りのないようにする」ということで話が出来帰ろうとしたら、又巡見使側に呼び戻され「五日例幣使お泊りについて他にも何かあるか、もしあれば東野(恵那市)で泊るので遠慮なしに言え」ということであった。「大変有難いことで他には別に支障はない、宿舎が例年衛士衆の泊るところで申訳ない」旨申上げたら理解下さり、「いろいろあれば申出よ」のことであった。帰って尾張の役人にも話したら大変安心された。
 このように例幣使と巡見使合宿(差合)については、巡見使の方からおれて一件落着した。
 例幣使の場合、嘉永元年(一八四八)四月五日に万里小路宰相が泊りになっていた折、二条御番衆の本多肥後守と差合いになった。街道の通行でも権威を揮っていた番衆でも、大泉寺で休むこととなり本陣長右衛門が案内したということがある。
 また差合で問題になったのは、文政一二年(一八二九)五月二日、今川刑部大輔と有馬玄蕃頭が合宿になったときのことである。有馬氏が帰国のため五月二日に中津川宿に宿泊の廻状を先に受理した。次に、今川氏帰府のため同二日宿泊の廻状が四月晦日に届いた。ここで二日に差合いになるので、本陣市岡長右衛門は早速代役として兵九郎を、次に今川氏(京都使者)が一日宿泊していた伏見宿まで送り「五月二日は有馬玄蕃頭の止宿を引受けているのでお断りしたい」という趣旨の書状を届けた。今川家の役人は大変怒り聞き入れる気配はなかった。伏見宿問屋からも断ってもらったが聞き入れられなかった。この様子は、書状をもって中津川宿本陣へ飛脚で知らされた。もっとも二日の六時には有馬氏が到着の予定であったので、本陣では直ちに今川氏へ届けた断りの書状と、今川氏が聞き入れなかった様子を伝えた伏見の代役からの書状を添えて、その経緯とこういう情況を説明し、脇本陣への止宿をお願いしたい旨、したためた書状を持たせて、有馬氏の昼休みをしている三留野宿に代役源右衛門を派遣した。
 五月二日未刻(午後二時)有馬氏の台所方・先番の者が着いて、本陣に関札・懸札・幕等をかけたので 宿役人が断った。しかし「これは私たちの役目だから」といって聞き入れなかった。したがって年寄役の六左衛門は、裃着用で早駕籠で今川氏の一行にまたまた断りに向かった。坂本の立場でゆきあい、以上の情況を申上げお断りしたが、一向に聞き入れられなかったので致し方なく引上げた。一方有馬氏一行に派遣されていた源右衛門からは、その後一向に音沙汰がなかったので和助が出かけたところ、十曲峠(落合)で有馬氏の早乗の家中と行逢ったので様子を尋ねたら「落合宿に止宿する」とのこと早速立ち帰りその旨伝えた。そこで又六左衛門が早駕籠にて今川氏一行へ伝えに出たところ小石塚で会い引受けることになった。
 中津川宿に着いた今川氏は、本陣にいた六左衛門・兵九郎・実戸村彦蔵三人を呼び出し「どういう心得で断ったか、本陣は公儀御用通行の節の休泊のため置かれているのであって、私用にて通行の有馬氏の宿を先約などといって断るのはおかしい」といわれたので、中津川宿年寄半兵衛、問屋森孫右衛、本陣市岡長右衛門三名の連名で「大変無調法をした今後はこうした心得違いのない様にするので、ご憐愍ご慈悲をもってお聞済み欲しい」という一札を入れてこの一件は落着いた。
 今度の件については、落合宿の有馬氏へは本陣代羽間杢右衛門、役人代伝七の二人が献上物をもってご機嫌伺いにでて、翌三日には小休を受けている。この件について大湫宿からも今川氏の動向を心配して飛脚も来ている。その伝えるところは、今川氏の役人が大湫宿の問屋に話したことを心配してのことであった。それは、「今度中津川宿で有馬氏を引受け我々を断ったとすれば、此方(今川氏)は宿端にて野陣を構える、そうすれば中津川宿はいずれほろんでしまうかも知れない」という内容であった。
 一件落着したものの本陣がその対応に困惑している様子がよくうかがわれるできごとであった。