宿場には遊女を置くことは、幕府では早くから禁止されていたようである。市岡家に残る文書中にも、寛文四年(一六六四)以降度々通達されていることが記録にある。しかし旅籠屋には飯炊き女は置いてもよいことになっていた。しかしその服装がだんだん派手になっていくので、飯炊き女の衣類制限の廻状が、延宝二年(一六七四)六月一九日道中奉行より出されている。「……兼而ゟ堅申渡候 飯炊き女の外一切指図間敷候 縦食(ママ)たき女にても兼々申渡候通 木綿・布帷子帯等ニても相違候ハハ 是又急度可申付候問油断申間敷候日頃宿々ニ而右之品々ゆるやかのやうに風聞承候故申遣候……」(古来入用書付留帳)。このように飯炊き女の華美な服装を禁止したその背景には遊女まがいの売色行為があったことが考えられる。