定使

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宿内は勿論のこと、宿と宿、宿と村々などへの使い走りをし、定使や飛脚の他に、何ら通信機関のなかった当時においては、欠くことのできない存在であった。村方では、このような役を七里と称している。
 「濃州徇行記」には、
「○問屋二人合力米九石 年寄四人高四石 是は地頭山村甚兵衛より宛行る 定使一人米四石 是も同じ ○帳付一人 馬指一人金三両問屋共より抱金つかはす………」
 
と問屋・年寄や定使への給米と手当について、知行主である山村甚兵衛が支払ったことが書かれている。帳付と馬指の給金は宿金の中から支払われた。

Ⅵ-100 宿役人の人数と給米金

また、Ⅵ-100表に見られるように、問屋の給米は九石から六石に減石され、年寄と下役である帳付、馬指、人足指、定使の給米金の記載が見られなくなっているが、手当の給米金が全くなくなったものではない。
 これらの宿役人の人数については、問屋二名の変動はないが、年寄は三名、四名、五名と増減が見られ、その任期も問屋と比較すると短くなっている。馬指などの下役は「濃州徇行記」以後の史料では、帳付を除いて増員しているが、年によっては人足指が置かれない場合もあった。
 中津川宿の問屋は、多少の変遷はあるが、市岡家、森家、肥田家などの数家で世襲され、問屋制度の廃止まで続いた。年寄も問屋も宿内の有力者の中から出ている。天保八年(一八三七)から問屋長右衛門は中津川村庄屋を兼帯するが、弘化二年(一八四五)の「中津川納目録」からは、九郎兵衛と長右衛門の二人となっている。

中津川宿の問屋・年寄の変遷