刎銭、市運上金、御救金、拝借金など、宿助成金を出して、宿駅を維持し、伝馬役などの課役を果すことにつとめるにしても、宿駅を推持していくにはいくつかの大きな問題があった。それは、
① 一宿ごとに荷をつみ替えて継立をするため、荷をいためること。
② あくまでも公用、領主の利用が優先し、一般商人荷物の輸送は従であったこと。
③ 公用による無賃通行が認められていたこと、その分相対賃銭の収入を宿は期待すること。
④ その公用通行者が増加していき、継立をめぐるトラブルが発生したり、宿駅の苦しさは増大していったこと。
⑤ 元禄三年(一六九〇)、すでに中津川宿内で役勤家が二~三軒明き家になっても引取ってやる者がないと尾張領役所へ訴えているように、宿内における潰れ家など、階層変化が進んでいったこと(市史中巻別編)。
などであり、これは宿駅制度そのものがもつ矛盾点でもある。
これらの問題のうち、中津川宿、落合宿をふくめた木曽から美濃筋の中山道の宿々として、
○信州中馬、木曽牛(牛方)の問題。○名古屋の都市化成長にともなう下街道の通行と中山道通行の問題をとりあげることにする。