中馬

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中馬は、馬背による長距離輸送機関で、信濃を中心に発達したものである。農民が自ら生産物や委託された品物を売りに町へ出たという、農閑期の稼ぎから始まった。
 こうして始まった中馬は、商品生産の発達、流通の拡大とかかわってやがて専業化していき、明和元年(一七六四)の幕府の裁決によって公許となった。それによると、中馬を公許された村は、信濃国の中で六七九か村といわれ、許された馬は一八〇〇〇匹余、各商品別に一駄二~四文の馬継場口銭を支払うことになっていた。
 中馬の特色は、何といっても付け通しで、名古屋から松本という遠距雛でも、飯田で付けかえをするだけであった(体系日本史のうち交通史)。また運賃はすべて荷主と中馬の間の相対できめられたし、一駄の貫数についても宿の継立のような定めはなかった。一人の馬方が三匹から九匹にもなる馬を綱引きして運送をした。
 中津川宿・落合宿の「余分稼筋(かせぎすじ)」による利益を奪う中馬は、松本・諏訪と名古屋間のコースであり、その中心は七八四九匹の伊那郡中馬、つまり飯田在の中馬の動きであった。
 中馬街道(上中馬街道)は、諏訪-伊那谷-飯田-三州街道-平谷-根羽(三州街道と分れて)-上村-明知-猿爪-大川-細野-柿野-品野-瀬戸-大曽根-宮(熱田)で、より早く搬送するため山越え道をとり名古屋へ向っている。
(これが恵那・土岐地区でいっている「中馬街道」である。)
 嘉永六年(一八五三)中津川宿問屋が飯田中馬年行司あてに出した覚書(市史中巻別編)に、中馬通しで平谷、浪合から名古屋へ付け出していたが、今度は口銭をきめて、中馬にて妻籠より上海道(中山道)を通って名古屋へ出る筈、という内容がある。このことから、飯田から清内路-妻籠、それより中山道を通って名古屋へ出る中馬もあったことがわかる。
その場合の口銭について、前記覚書は次のようにあげている。
 
    信州飯田糸荷物口銭定書之覚
  飯田糸荷物
  一 銭三拾六文 壱駄但四箇付
  下り 荷物之分
  一 同弐拾文 壱駄但四箇付 壱箇五文ツツ
    外ニ染物板〆荷物同断の事
  下り 茶荷物之分
  一 同拾弐文 壱駄但四箇付壱箇三文ツツ
  右之通今般示談之上取極候付規定書相渡申候 以上
 
 中津川宿問屋は、飯田中馬と示談し、中津川宿での口銭を取りきめたのである。