野麦峠の東麓にある奈川村は、松本と飛驒を結ぶ街道沿いにあり、中山道からの脇道も寄合渡で結ばれていた。この奈川村から宮の越宿の在にかけて約四〇〇〇頭の牛がいた(体系日本史のうち交通史)。
この牛が、北は越後、東は江戸、西は名古屋で諸荷物の運送をし、駄賃稼ぎをした。宿々には一駄四文ずつの口銭を払っていた。飯田在の伊那郡を最大とする中馬とちがった牛稼であるが、「尾州の岡船」といわれるほどの活躍であったといわれる。この牛稼について中津川宿あたりでは、「木曽牛と申すうち 奥牛と唱え……」(市岡家文書)とあるように、牛方連中を奥牛と呼んでいたようである。藤村の「夜明け前第一部」に「西は新茶屋から東は桜沢まで、木曽路の荷物は馬ばかりでなく、牛の背で街道を運搬されていたので………」の一節があるが、これもまた、この木曽牛の活躍をさしているのであろう。
文政一〇年(一八二七)に、奈川村と中山道諸宿が、口銭や荷物について争ったが、結局内済となり、荷物の品目と口銭を定めた(体系日本史のうち交通史)。その内容について、中津川宿は次のように承知している。
一 木曽牛と申内奥牛と唱宮越辺より出候牛の儀は 先年右宿(宮の越)より落合宿始七ヶ宿へ頼これあり候付
入魂の上諸荷物 壱駄口銭四文宛の筈 勘弁を以て取極置く儀に御座候
但 上り方 木紙 烟草 桧笠
下り方 茶 口なし 釜
櫃荷物 是は江州辺より太物 小間物等入候分
尤荷物は宮越宿にても別段増口銭請取来申候 (市岡家文書)
このように、木曽牛に対して、飯田在の中馬と同じように、口銭四文を協定している。