下街道

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下街道と、中津川宿・落合宿を含む東美濃七か宿の問題は、中馬と宿駅の問題と同様に、商荷物の運送をめぐる深刻な問題であった。
 下街道は、大井宿はずれの槙ヶ根で中山道と別れ、現在の恵那市武並町竹折-瑞浪市釜戸町-同市鶴城-木暮-一日市場-戸狩-山野内-土岐市肥田-高山-神明峠-多治見市生田-長瀬-池田町屋-内津峠-愛知県春日井市に入って名古屋へ向かう。旧国道一九号線のコースである。この間で、釜戸(町屋)、瑞浪市土岐町木暮一帯、土岐市土岐津町高山、多治見市池田町、それに内津などは、旅籠、茶屋などあり、宿場らしく賑やかであったという。
 中津川宿・落合宿・木曽谷とも、行政はもちろん経済的にも名古屋とは関係が深いが、その距離をみるとき、下街道で名古屋-大井間一四・五里、中山道で名古屋-大井間(大湫-細久手-御嵩-伏見-土田-善師野-小牧経由)一九・五里あった。これでは当然商荷物は下街道経由となる。木曽谷へ向かう尾張家中でさえ、近いといって利用した。
 中山道宿駅側の苦情により、寛永元年(一六二四)に第一回目の争論がおきた。「瑞浪市史」によると、尾張徳川家の決定は「下街道の商人荷物の賃継は停止する。家臣の通行や継立て、それに一般人の通行とその携行荷物の運搬は認める。また、自馬による自家生産物の輸送はよい。」という内容のもので、商人荷物は中山道を通行することになった。
 第二回目は慶安四年(一六五一)で、中山道六宿(大井・細久手・御嵩・伏見・土田)と小牧、善師野二宿が自馬通行許可に目をつけて、付通しをする伊那などの中馬を相手に争論となった。尾張徳川家はこれに対して「商人荷物の下街道通行はきびしく停止、牛馬による名古屋-木曽間の自分荷物は今まで通りとし、中馬連中から口銭をとってもかまわない、伊那-品野経由-名古屋の中馬輸送は従来通りでよい。」という内容であった。
 この慶安の決定後は、木曽-名古屋間の付通しが下街道を多く通行するようになり、第三回目の尾張徳川家の裁決を必要とした。これは元禄二年(一六八九)のことである。
 「古来入用帳」(市史中巻別編)によると、「下海道通行停止の覚」として、次のような内容になっている。
 
「当宿々より 名古屋へ参る商人 百姓荷物牛馬 先年より小牧道通り申す筈に御座候所 近年下海道通り申す様に相聞申し候に付 今度 御詮議の上 小牧海道往来致し 下海道一円通り申す間敷き旨 仰付られ その意を得奉り自今以後 堅く相守申すべく候 当宿々御領分の寄付村々へも 右の旨相守り候様に堅く申し渡し庄屋共方より判形取置き申すべく候後日のため連判手形 仍而如件   元禄弐巳七月廿一日
 恒川弥五平(陣屋)様へ   (このごとく大井、落合、中津川より連判致し差上げ申し候留書)」
 
 このように名古屋へ行く荷物、商人荷物、牛馬荷物とも、「一円通り申すまじく候」ときびしい裁決であった。
こうして、下街道の荷物送りは一切禁止となった。
 しかし、安政三年(一八五六)の馬籠牛方と中津川宿問屋の争いのおり、下街道の問屋筋、瀬戸物問屋が関係しているし、「藤井日記」(市史中巻別編)に下街道高山[土岐市土岐津町]へ「焚木を売る」の記事があり「この焚木を送るのに大井宿がむつかしいことをいう」とも記録されている。このように、下街道にかかわった商品売買関係はつづいた。
 また、槙ヶ根の下街道分岐点に「左伊勢道右京道」の大きな石碑があるように、下街道はお伊勢参りの道として中津川宿あたりの人たちは利用しつづけた。