大名通行願い

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寛永一二年(一六三五)参勤交代がはじまった。それ以来、大名通行は街道の大通行集団となった。
 中山道を通行することに定められていた大名は三〇家、石高二一二万石といわれた。中には郡上の青山家、大垣の戸田家、彦根の井伊家などのように、東海道でも中山道でもよい、といわれる諸家があった。苗木遠山家は中山道通行、岩村松平家は東海道となっていた(第六節大名通行参照)。
 参勤交代を命じた幕府の目的の中に、大名諸家の出費を増加させる、があっただけに、諸大名はその面目にかけて通行をした。各宿にとってはその時期が、三月が加賀の前田家、四月は苗木遠山家、六月は加納の永井家というように農繁の時期とかさなり、人馬割当ての苦労はあったが、継立人馬の多くは相対賃銭であったから、大名通行が宿の大きな収入源であったことは確かである。
 こうした理由が背景になったのであろう。享保一二年(一七二七)、中山道諸宿が大名通行の増加を道中奉行に願い出たことがある。「古来入用帳」(市史中巻別編)によれば、この願出には、赤坂、加納、鵜沼、中津川、本山、下諏訪、上野国のうち一宿の本陣・問屋・年寄のうちから計一四名が代表となって、江戸市ヶ谷、上州屋半四郎方に泊して、尾張徳川家に内願し、意向をたしかめて、公儀に願い出ている。
 この願い出の裏には、宿人馬五〇人、五〇匹にしなければならない意識があったのか、木曽谷一一宿は参加を遠慮しているし、上野国のうち四~五宿は、絹商売の助成が先決と参加をしぶった。こうして足並の揃わないままの願い出となった。
 特に、元禄一七年(宝永元年一七〇四)から年々の大名方の通行を残らず記録していた中津川宿本陣長右衛門には格別の諮問があった。享保一二年の九月から一二月まで江戸出張、翌一三年申年も一〇月に中津川を出立し、一一月までいたが、結果は、
「其方共去年より願の儀 差支申す筋これあり 相かなわず候間 時節をまて」との指示であった。これに対して、本陣の代りに上京していた年寄伊右衛門ら宿代表五名(この申年の代表は、赤坂、追分、軽井沢、坂本、それに中津川)は、「何卒 中山道御救と思し召され 願の通り 仰付下し置かれますように」とねばったが、「時節もこれあるべき」と答えて、幕府役人は席を立ってしまった。
 こうして、大名通行増の願いは消えていった。
 時代が下って、寛政一二年(一八〇〇)に、「中山道筋大名並諸家中通行についての願」を中山道全体でしようという動きになり、「近年中山道筋大名様並びに諸家中様一切御通行なくて 宿方の者 本陣はじめ旅籠屋 茶屋などやっている者まで 大名並諸家中様の道中通行のおかげでもって 渡世をしているものですから 近年御往来一切ござなく故 一統困窮仕りました」と東美濃九か宿は江戸へ代表を送ったが、他の上州、木曽谷の宿々は動かなかった。結果として、東美濃九か宿は叱られ、願い下げをして引き取った。