繩文時代前期の諸磯式(関東系)と北白川下層式(関西系)の繩文式土器を伴出することで全国的に著名な落合五郎遺跡は、他の中津川の繩文遺跡と同じ様に、この時代の東西文化の交流点と言われている。
祭祀遺跡でもある神坂峠(一五九五m)を越え、畿内から東国へ、東国より畿内へと足を運んだ古代人の人々もこの落合に足跡をしるしたのか、落合五郎遺跡からは平安期の祭祀遺構でもある神坂の平遺跡、水またぎ遺跡と同じ様に、白瓷系の椀(教育委員会蔵)などが出土し、古代堀立柱の穴が確認された。この事実は、いずれの時代にも関西から関東へ行くには、海沿いの道は別として、伊那谷を通るにしろ、木曽谷を抜けるにしろ落合の地に足を留めなければならず、ここは交通の要衝となっていた。この様に落合宿の成立は、古代や中世の交通とのかかわりが深く、「市史上巻」に詳しい。従って中世の木曽谷との関係を無視はできないので、このことと、中津川・落合に中山道の宿駅が設置される前後の史料や当時の遺構は確認できないので 木曽の交通に関することがらをとりあげて落合宿の成立を考えてみたい。
文明七年(一四七五)六月
・伊勢御師荒木田氏経 文明五年(一四七三)の東濃戦乱後、東国、北国から木曽路を経ての伊勢参宮が困難なため、通行が容易になる様に木曽家豊に書状を出す。家豊はこれを応諾する(信濃史料九)。
文明一五年(一四八三)二月
・木曽義在 定勝寺造営のため関を設けて関銭を徴集する。
延徳三年(一四九一)六月
・木曽家盛 定勝寺造営のため関を設けて関銭を徴集する(木曽考続貂三)。
天文二年(一五三三)
・木曽氏 木曽谷に宿駅を定む(市史上巻)。
天正二年(一五七四)
・木曽義昌 東濃攻略のおり馬籠峠を改修する(市史上巻)。
天正一三年(一五八五)一二月
・徳川家康 下条牛千世に上村(七五貫文)と落合(七〇貫文)の両村を遣わす(諸家古文書)。
天正一八年(一五九〇)
・三月 前田利家が小田原出陣のとき木曽路を通る(信濃史料補遺上)。
・八月 木曽氏関東へ移封。木曽谷は秀吉の蔵入地となり、石川光吉が代官となる。
・九月 石川光吉、木曽谷各村へ伝馬、道橋修理などを盛りこんだ定書を布す。
これらの史料は、直接的に落合宿の成立を示すものではないが、文明五年(一四七三)の小笠原氏の東濃侵攻による戦乱後の文明七年(一四七五)から天正一八年(一五九〇)九月の石川光吉の定書までに木曽路が、そのときどきの支配者により整備維持され、伝馬が円滑に行われるように配慮されていたことが知れる。
天正一三年(一五八五)一二月、徳川家康が下条牛千世に落合等の知行状を与えているが、この年に医王寺の再興、白山神社の再建、それに八幡神社が創建され、前年には高福寺が開かれたとある(塚田敷光手鑑)。落合郷土誌は知行状のことに触れてはいないが、「社寺創建年次を信ずれば、大正一三年に十曲峠経由の中山道が整備されたものとしてよい。」と、天正一三年の一連の出来事を関連づけ、街道の整備を推定している。徳川家康が下条牛千世に、伊那谷から東濃へ、東濃から三河へ通ずる拠点となる上村と、木曽谷を経て東国への入口にあたる落合の地を与えたことは、重要な意味を持つものと考えられ、何か大きな変革があったことは確かであり、天正一二年(一五八四)に開かれたという高福寺の位置が、落合宿の成立に深い関係があるのではないだろうか。
また、第二節に所収したように、文禄二年(一五九三)九月、常陸佐竹家の家臣大和田重清は、肥前名護屋からの帰路の日記に「……井(大井)より中津川まで廿文 中(中津川)より落合迠十一文……」(新城常三・信濃の新史料)と、中津川宿より落合宿までの駄賃銭を記録し、宿駅としての落合を書き留めている。このことは、慶長七年(一六〇二)幕府によって中山道の各駅に伝馬朱印状が渡される以前に、落合宿が存在していたことを示したものである。
これによって、落合宿は、細久手宿の様な新宿ではなく、慶長七年(一六〇二)以前に宿の形態をすでに整えていたことが分かるが、伝馬朱印状など公的な史料はない。
慶長七年(一六〇二)七月落合橋の架け替えを大久保長安が、千村平右衛門と山村九郎右衛門[甚兵衛良安]に命ずるが、その申付状(県史料近世七)は「……此以前々落合之年寄両人して かへ懸候由申候間 可有其心得候……」と落合村の年寄らにより徳川氏支配以前にも、道・橋の修理がなされ、以後は地頭にゆだねられたことが分かる。
これまでの歴史的なことがらから落合宿の成立を考えると、現在の落合の街並の様な形態をしていたかは不明であるが、宿場の位置は、字沖田の上の段、すなわち河成段丘上の同じ等高線上[現在の町並]につくられ、現在まで大きな移動がなかったと考えられる。