宿の助成

1314 ~ 1316 / 1729ページ
宿助成のための御救金や拝借金、それに増駄賃銭などについて、「塚田手鑑」は次の記録を残している。
(1) 御救金
・元禄七年(一六九四)から継続して、中津川落合両宿は、尾張徳川家より毎年三〇両を下付される。
・困窮に付き願上げ見分の上、元禄一四年(一七〇一)から宝永元年(一七〇四)の四年間に、金二〇両を尾張徳川家より下付される。
・寛保元年(一七四一)中山道落合・馬籠両宿間が十曲峠越えをやめ湯舟沢経由となり、明和八年(一七七一)に十曲峠を改修し再び通行するまでの三〇年間、落合・馬籠両宿は、毎年金五両の新道手当としての御救金を受ける。また、新街道からはずれた医王寺も金三両の助成を受ける。
(2) 拝借金
・元禄一二年(一六九九)金三〇両を拝借。翌一三年(一七〇〇)から一六年(一七〇三)までに金一〇両を返済し、残金二〇両は下付される。
・文化元年(一八〇四)落合宿内火災により焼失戸数四四戸、金三〇六両三分銀九匁を拝借。
・文化一二年(一八一五)再度の大火。焼失戸数五五戸、破壊一戸、拝借金二三〇両二分二朱
 (この火災による拝借金は、大半が返済されていない。)
・天保三年(一八三二)紀伊徳川家若様通行に付き金八〇両拝借。
 (この拝借金は天保五年(一八三四)から一五か年賦で返済するはずであったが、この年に金五両一分銀五匁を返済し、残金七四両二分銀一〇匁は未納。天保一二年(一八四一)に返済の請求を受けるが延期を願う。)
 (3) 宿助成金の配分
 ・落合、中津川間の駄賃が一駄[四〇貫]銭二四文と定められたのは元和二年(一六一六)のことである。寛永二〇年(一六四三)には増駄賃銭となり二四文が三五文となった。これが「古来入用留帳(市岡家文書)」に初めて出てくる増駄賃の記録である。
 塚田手鑑には安永三年(一七七四)以降の増駄賃のことが記録されているが、増駄賃となる当時の社会的な状況や駄賃銭や刎銭などの性格は、第二節五項で述べられているので、ここでは、落合宿での刎銭などの配分等を中心に取上げ、天保年間の増駄賃についてはⅥ-103表にまとめた。

Ⅵ-103 天保年間の増駄賃銭(塚田手鑑より)

 安永三年(一七七四)一二月一五日より天明元年(一七八一)一二月一五日までの七か年間、駄賃銭は二割増となり、一割は宿[五分宿助成五分勤人馬]へ残り一割は尾張往還方役所より幕府へ差出すことになっていたが、この一割の増銭が金一一六両三分余となり、一割の利息で宿方貸付となった。利息のうち九分[一〇分の九]が宿助成につかわれ、一分[一〇分の一]が元金に繰り入れられた。このことを塚田手鑑の「新割増之覚」の項は
「…右之内一割年々両度ツツ尾州ヘ上納致シ其後宿方江御貸付と相成候 委細ハ新田貸付帳ニ委シ」
と、書かれている様に、この金が新田の経営につかわれたのである。
 伝馬御救金は享保一六年(一七三一)の申し合せの通り、御救金を七ッ割にして六ッ分を伝馬役に、一ッ分を歩行役に配分しているが、拝借金の場合は、伝馬役三八人に問屋二人を加えて四〇人とし、御救金と同じ様に七ッ割の六ッ分を問屋・伝馬役に、一ッ分を歩行役二九人に割渡している。
また、三割半割法と言う配分の方法もある。これは、問屋二人を四とし伝馬役三八人に加えて四二人分とし、伝馬役の半分を歩行役に渡すものである。この三割半割法の別の仕法は、歩行役二九人を半分の一四人半として、伝馬役・問屋の四二人に足して、対象となる金を五六人半で割り、三分の一を歩行役、三分の二を伝馬役に渡すものである。この他に天保九年(一八三八)の駄賃銭の五分増の都合割増駄賃銭の配分方法もあった。