「…小駅にて貧戸多し 宿内七十戸ほどあり 左右に旅籠多く建ちならび近来家ことごとく破壊して見ぐるしき宿場也…」
と、疲弊した宿内の様子を書いている。徇行記が書かれたのは寛政年中であるから、それ以前から落合宿は衰退の一途をたどったと考えられる。宿のみの収入を頼り、きわだった産業もなく、隣接する村々の物資を集散し市場を開くことができない小宿は幕府や領主の助成だけでは宿駅の経営は困難をきわめ、落合宿も例外なく同じ様な傾向であったと思われる。それに落合宿は、中津川宿に一里弱と余りにも近すぎ、また木曽谷への拠点としての位置を利点として、充分に活かしきれなかったのも宿疲弊の一因と考えられる。
落合宿の困窮のありさまは、塚田手鑑でも見られる様に、すべての拝借金が完済されていないことからも理解することができる。このような状態の中で落合宿の機能が維持できたのは、尾張徳川家という大家に属していたためであろう。
この様な宿駅の救済が行われたのは、宿駅が幕府の公的機関として、幕府役人などの通行が円滑に行われるために、宿駅の休泊施設と輸送体制を充実することにあった。落合宿内の休泊施設は本陣・脇本陣、それに旅籠屋が一四軒あり、宿内の総戸数は七五戸を数えた。大通行のときは一般の民家も旅宿となり大概帳には「…但右弐ヶ寺往還より少々引込有之 宿方差支之節ハ休泊請申候由…」と書かれており、高福寺・善昌寺ともに宿泊の施設として利用されたのである。旅籠の他に食べ物を売る店や茶店などがあったが、これらの店は専業としては成り立たず農業と兼業であり、村明細帳でも「稼ニは農業の間 男女共薪取草刈 或ハ茶や旅籠屋等ニ而渡世仕候」と報告されている。
大概帳による落合宿は
・南北 三町三五間(約三九〇m)
・道巾 二間-三間(三・六m-五・四m)
・落合宿-馬籠宿 一里五町三間(約四五〇〇m)
・落合宿-中津川宿 一里(約三九〇〇m)
の規模である。「中山道分間延絵図」(東京国立博物館蔵)は京方から、下町・仲町・上町と、宿内を区分しているが、上町に続き横町(枡形)、それに御判刑場(ごはんぎょうば)(高札場)までが宿内とされている(落合郷土誌)。用水が宿内の真ん中を分けて流れ、仲町には本陣兼問屋と脇本陣兼問屋が向かい合って建っていた。
Ⅵ-104 落合宿 (中山道分間延絵図)