Ⅵ-105 落合宿本陣絵図
Ⅵ-106 落合宿本陣 (上段の間)
正門をくぐって中に入ると、厚さ二二cmの壁をめぐらし二階建となっている土蔵造りの建物、ここが大名たちの泊った建物となる。土蔵の入口のような玄関へ入ると最初が巾三・四〇mの板の間である。板の間へあがるとここから各部屋へ通じている。まっすぐ奥へ台所・板の間・居間の順となり、その左手奥に上段の間がある。次の間から上段の間をみると、両脇の襖(ふすま)にはさまれて二枚の簾(すだれ)がさがっており、このすだれの奥に上段の間がみられる。上段の間近くの非常用の抜穴から善昌寺裏へ遁れ出ることができたという。また欄間(らんま)を通して小姓と話が出来たという。小姓の間の天井の一隅は三尺四角が上へ開きここに忍びの武士がひそんで上段の間を警固した。なお欄間は上段の間からは丸く見えたが、裏側の小姓の間から見れば 正方形の障子がかけているに過ぎなかった。上段の間の床の間の左は違い棚である。また腰板なしの障子がとりつけられている場所もあり、上段の間に忍び寄ろうとしても、その姿が障子に映るよう設計してあった。姿見の障子とも呼んでいた。本陣は桧を用材とすることが許され、壁も土の中へ松の皮を細かくしてぬりこんでいた。壁の色は暗い焦茶であった(落合郷土誌)。
Ⅵ-107 落合宿脇本陣絵図 塚田弥左衛門居宅
落合本陣は、一般の旅客も宿泊させていた。文久三年(一八六三)七月の江州商人萬屋仁右衛門持参金盗難一件(五章参照)の証文に「…相宿三拾余人之者共御差留置…」(井口家文書)と、約三〇人の一般の宿泊客があったことを書いており、また道中独案内は「落合一リ 井口五左衛門」の案内を出しているが、公的な休泊の少ない宿場の一般的な傾向であった。
また落合宿の規模からすれば、大通行の宿泊は困難であったと思われ、文化四年(一八〇七)の休泊の記録(落合郷土誌塚田家文書)によればこの年は御小休五件、御宿泊一件[本陣二五人・下宿四軒・御用宿五軒]となっており、宿泊の少なさがわかる。宿駅は大名らの通行があり、本陣に止宿すれば下宿を引き受ける旅籠などが潤うわけであり、本陣が一般の旅人を宿泊させるのは不本意なことであったに違いない。そのため各宿がまとまり大名の中山道通行願いを度々嘆願するのである。