落合大橋

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宿外れを流れる落合川を渡る橋を、現在は下桁橋と言うが、「濃州徇行記」は「…但木曽堺の刎橋は尾州よりの見分なり…」と言い、下桁橋とは書いていないし、「尾張藩古義」も刎橋、「中山道分間延絵図」は、字落合川板橋。「塚田手鑑」は大橋と書き、慶長七年(一六〇二)七月の「落合橋懸替申付状」は落合橋である。
 宿村大概帳は「字下桁橋」と、記録しているが、明治三年(一八七〇)に書かれた村明細帳には「往還通字下桁橋壱ヶ所……」と、字下桁に橋が一か所あることを示し、下桁は字名で橋名でないことがわかる。この様に橋名は一定しておらず、中津川の場合でも「中津川大橋」と書かれている例が多く塚田手鑑の「大橋」と呼ぶのが適切ではないだろうか。
 宿村大概帳による落合大橋の規模は
 ・長さ一八間(約三三m)
   両端の長さ一一間(約二〇m)は土橋。残り七間(約一三m)は板橋
 ・巾 二間(約三・六m)
とある。「濃州徇行記」は「…欄干橋あり 長さ十七間 巾二間なり 大道方役所より修築せり 両方より材木にて組上げ見事なる橋なり…」と、欄干[大概帳は高欄]がついた立派な橋であると書いている。また壬戌紀行は「…木曽川[落合川の誤り]にわたせる橋を落合橋といふ 橋杭なし…」
と、橋杭のない様子を述べ、「木曽路名所図会」はその特徴を版に刻んでいる(Ⅵ-108図)。

Ⅵ-108 落合刎橋 (木曽路名所図会)

 落合大橋の架設や修理は、「濃州徇行記」の「…大道方役所より修築せり… 」と、ある様に領主が負担した。元和の初め、山村甚兵衛と千村平右衛門が尾張徳川家に附庸する前は両氏が、それ以後は尾張徳川家が大橋の架設や修理を行うが、文政年間より落合村が請負い、尾張徳川家より年間仕用金四〇両を、明治二年(一八六九)からは物価騰貴を理由に金一〇〇両を受取り維持管理した(村明細帳)。
 「塚田手鑑」は明和八年(一七七一)以降の落合大橋の流失や架橋などの記録を残している(市史・別編宿交通参照)。これ以前の記録でわかっているのは、慶長七年(一六〇二)の山村・千村両氏の架替申付状万治三年(一六六〇)・延宝元年(一六七三)の落合橋普請(木曽留記)のほか、茄子川・篠原家文書(市史別編)の元文五年(一七四〇)九月の「落合仮橋御用人足」の五例がある。この様に落合橋は、洪水の度に崩れ落ち通行に支障をきたした。そのため多くの費用がかかり、また木曽山の材木が伐りつくされ橋材の不足を理由にし、領民の願いもあると、山村家は往還を湯舟沢村経由に付替えるよう老中松平左将監[享保八(一七二三)~延享二(一七四五)]に願い出ている(木曽留書)。