助郷帳下付

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元禄六年(一六九三)正月、江戸を出発して、東海道を上方へ上り、中山道を通って江戸へ帰るコースで宿駅の巡見が行われた。巡見使は古来入用留帳によれば、三月一〇日に当地到着、一一日出発で巡見を行っている。宿としては、前年[元禄五申年一六九二]中の人馬払・落合馬合宿のわけ・定助村名と道法・助人馬の詰払いの書付・当宿町の役人定使馬指給金・町内男女・家数・町の長さなどを書上げ報告している。
 このうち中津川宿定助村書上げ帳では、定助村高八三〇六石余と村数一三か村をあげてから、定助というのは二条番衆・大坂番衆・公家・門跡の通行の場合に定助村へ申し遣わして、人馬寄せをして、勤めさせるものであり、その勤め方として、
 ○下りの場合は中津川宿に落合宿人馬二五人・二五匹合宿させ、それに寄人(助郷)馬を一緒させて勤める。
 ○上りの場合は落合宿に中津川宿の人馬二五人・二五匹合宿させ、寄人馬と一緒になって、大井宿まで勤める。と報告している。これらの書上げ報告の他に、実際に巡見使から尋ねられた事項についても「古来入用書付留帳」に残されている。その中から、助郷関係のものをあげてみると、
 ○中津川宿への道法八里に限って、不助の村を書き付けて提出せよ。なお中津川宿へ三里の道法の村には不助の村はない、と報告していること。
 ○宿側から巡見使にお願いしたこととして、中津川宿と落合宿は合宿で、定助村も両宿寄付となっている。近年は大名方通行の場合にも両宿合宿で勤める時がある。その時に不意の通行があると間に合せかねることがあったので、その場合に寄付村を呼び出して、御用を申しつけてはいけないか、と申し上げているが、取上げられなかったこと。
 ○中津川宿村内の在方について、寄付村との関係を意味する質問を受けている。一つは、在方五か村[中村・実戸・子野・上金・北野など]を枝郷としているが、これは寄郷(寄付村の意)ではないか、という質問である。これには、中津川宿村の町方にて万事入用割り付けを、この五か村にしているので枝郷であること、と答えている。二つめは、それなら在方五か村は伝馬役を勤めているか、と尋ねられている。これには伝馬役は勤めないが、歩行役について町分が一廻りした後、在方も一廻り勤めている、と答えている。三つめは、このように中津川宿村は町内も広く、人数も多いので、寄付村々から人足を呼ばなくてもよいではないか、と尋ねられた。これには町は広くても、御通りが激しい時は、町在郷共に一二〇軒の役持ちでは不足するので、今まで通りに寄付村から寄せないと間に合いかねる。と答えていること。
 こうした巡見使の調査をへて、その翌元禄七年(一六九四)幕府(道中奉行)より助郷御証文を下付されている。古来入用留帳では「中仙道[中津川町落合町]助郷帳」(市史中巻別編)と上書ありとしてこれを記録している。これは、Ⅵ-112表のようである。

Ⅵ-112 [中津川町落合町]助郷帳

 助郷一三か村をあげた後の申付文の内容の概略は次のようである。
 「右の通り中津川町落合町へ助郷申し付るから、その触があり次第人馬を滞りなく村々より出しなさい。この帳面は中津川町・落合町の内に指置いて、助郷の村々にて写して、これからはきっと守ること。若し触れがあっても参らんことがあれば曲事申し付ける」と下命している。これに対して助郷一三か村は「差出し申手形の事」として庄屋連判請状を提出している。
 こうして元禄七年(一六九四)に中津川宿・落合宿を含めて、助郷は確定している。但し、その後において、他の宿では若干の不備の修正がおこなわれたところもあるが、中津川・落合両宿の助郷一三か村は幕末まで変化はなかった。
 参考までに美濃一六宿と馬籠宿の助郷についてまとめると、Ⅵ-113表のようである。

Ⅵ-113 美濃一六宿・馬籠宿の助郷