元禄六年(一六九三)の定助村書上(前出)の中に、駒場・手金野・千旦林・茄子川・上地各村と村高・道法・領主名をあげた後に
「但しこの間に木曽川舟渡し御座候 (苗木領)遠山和泉守様御領分八ケ村の分は 木曽川向いにして 満水の節は人馬触候ても舟越御座なく候故 一人一疋も出申さず候 その節は八ケ村より出すべき人馬を尾張領並に(岩村領阿木村)丹羽越中守様御領分(茄子川村内旗本領)馬場権六様御領分へ申遣わし加人馬寄相勤申し候事」として、川北八か村は木曽川満水の時は助郷出勤不可能であることと、その場合の対応を書上げている。
川北八か村嘆願書(慶応四年立教大学文書)では、このことについて「木曽川と申す大河があり、いたって荒川で、少しの雨でも急水一時に増して川留めになる。三月から夏にかけて、こうした川留めは数度に及ぶ、荒川だから平水でも暮六つ時(夕方六時)限で夜中渡舟はできない。助郷急触れの節は間に合わない、そこで余儀なく、高価な人馬を宿方にて雇い上げて継立てられ莫大な諸雑費がかかってくる」という趣旨の文面があるように、川北八か村にとって、木曽川を渡っての助郷勤務は大きな負担であった。
こうした「木曽川渡舟これなき節」の具体的な約束として、正徳二年(一七一二)以後は、木曽川渡舟できない場合には、人足一人一〇〇文・馬一匹四〇〇文ときめておいて、駒場・手金野両村が雇人馬にてかわって勤め、代銭を川北八か村へ請求する(塚田手鑑・市史中巻別編)。また延享五年(寛延元年一七四八)からは、助郷割当が高一〇〇石について、人足四人、馬一匹までは、川北八か村にかわって、駒場・手金野・茄子川・千旦林に岩村領の阿木村を加えた五か村が勤める。そのかわり「晴天渡舟あいなり候節」に川北八か村で勤返しをする。ただし、一〇〇石につき四人割、馬一匹割以上の時は、正徳二年の定の通りにするとなっていた。なお雇人馬の勘定については、宿問屋でまとめて、七月と一二月の年二回行うことも申合せている。この約束は天明元年(一七八一)に確認もしている(立教大学文書)。