助郷高

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中津川・落合両宿助郷高をめぐって、宿側と助郷側(特に川北八か村)の間に意見の対立があった。
 中津川・落合両宿の助郷高八三〇一石は、美濃国内中山道一六宿では最低である。八〇〇〇石台は中津川・落合両宿のみで、Ⅵ-113表でわかるように、九〇〇〇石代が垂井・関ヶ原・今須の西濃三宿で、他の一一宿はすべて一〇〇〇〇石以上の助郷高をもっている。
 江戸時代後半になって、助郷負担が増大すると、中津川・落合両宿の助郷高が美濃一六宿の中でもっとも低いこと、そのため他宿助郷より、中津川・落合両宿助郷は負担がより重くなっているのではないかと、川北八か村の村役人は、この問題を取上げている。
 それは寛永一七年(一六四〇)の岡田将監の仰付けでは、寄付村として落合村に中津川村も入れて「都合一〇一一一石」(御用伝馬録)としているように、両宿の助郷ははじめの形では落合村・中津川村も入っていたのではないか、だから中津川村の在方や落合村も負担して、それから川北八か村など、一三か村助郷村に寄付の触れをすべきであるという論考である。
 実際に天明七年(一七八七)の川北八か村助郷惣代の定書(御用伝馬録)では「定書の事」として
 
 一 中津川宿は中村三村(中村・実戸・上金)より定助郷人足九二人相払い申すべき候事
 一 落合宿は山の田・大久手・下落合より三二人相払い申すべき候事
 
 としている。また嘆願書(慶応四年川北八か村提出・立教大学文書)の中にも、「宿立人馬の外枝郷三ケ村とも、中津川村高一三三四石六斗三升の場所にて、人足九〇人づつ大助郷に打込んで相勤め」として、寛永一七年頃は中津川在方が助郷にでていたとしている。
 天明七年の定書、慶応四年の嘆願と同じ内容のことを「御尋ね申す御返答承り申し度事」として、助郷側は両宿に申し入れをしている。これに対して中津川宿の返答として、
 
 一 中村・実戸・上金・北野村の事 中津川散家(在家)人足五〇人の儀は 往古より尾州様・山村様地廻り御證文 人足数多これあり節遣わし払い候筈 往還伝馬には一切継立申さず候(元治元年宿方答書御用伝馬録)。
 
 として、助郷に出るものではないとしている。同じように宿側の考えを示す「覚」(市岡家文書)によると、
 ○落合定助場所 高四八〇石余の内で、三二人これあり、馬なし、これは大久手、山田新田場にて、七里役ばかり勤め候とある。
 ○中津川宿定助場所 高一三三八石余の内での上金・中村・実戸分で九二人これあり、うち一人上金御番所小使、一人上地御番所の七里持、半人は中津川御代官所小使毎日引、引き残りの八九・五人は両宿人馬次に定助人足払となっている。
 しかしこれに「下け札」をつけて「是は地役のみに使 往還役には遣わし来り申さず 助郷触当の事これなし候」としている。
 このように両宿には中津川村の枝郷は助郷にでていない。落合村については別の役割があるとして、助郷側の意見を入れなかった。